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2018
12.01

11月に思うこと・分かりやすさ

Category: 思フコト
今年の年間書籍ベストセラーは、『君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)だそうである。



本著は、吉野源三郎の原著を漫画仕立てにしたもの。
少しく昔の文体が、映像と共に読み手に分かりやすく入ってくる。

ちなみに同じベストセラー二位は『大家さんと僕』(新潮社)でこちらも漫画である。
三位は『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)。
こちらは、見開きページか一ページで絵入りの簡潔な内容が楽しめる。

この現象は、活字離れといえばそうなのだが、
読み手のほうが、手っ取り早く・わかりやすく、内容や知識を得たいという
傾向を持っているからなのだろう。
そのニーズにこれらの本が合致したしたということなのだ。
現に『君たちはどう生きるか』の原文(岩波書店)は、この漫画ほどヒットはしていない。
漫画・『君たちはどう生きるか』が売れたということなのである。


翻って短歌はどうか。
一首ずつ読むことができて、一冊をすぐ読了できる。
それは間違いない。
しかし、そこで文体がよみづらい文語調であったり
難解な内容であったりするのであれば、
それはそれでアウトである傾向はないか。


歌の傾向は、必ず時勢と同期している。
これからもますますわかり「にくい」ものはすたれるだろう。
そしてすぐに把握できる、手軽なものが好まれるだろう。
そのことを憂うこと、そんな魂は持ちつづけていたいものだと思う。



2018
11.01

10月に思うこと・名を冠した誌について

Category: 思フコト
佐佐木信綱研究会が刊行している、
『佐佐木信綱研究』が第10号を迎えた。


(※画像は第9號のものです)


平成25年に創刊して以来、年2回刊行のペースで
5年が経ったことになる。
今年は佐佐木信綱の興した結社「心の花」120周年にもあたる。
佐佐木信綱の歌業と生とを、克明に検証し、積み重ねていく
実直で充実した研究誌で、会員それぞれの緻密な検証の視点が光る。

第10号の今号の特集は「信綱の死とその時代」。
歌人その人が、生を送ったその時代の雰囲気や出来事は、
なかなか並列して想起することか難しいのだが、
この研究によって、信綱が生きていた時代のありようが明確に見えてくる。
今後は年一回の刊行とし、引き続き研究を続けていくという。


そして、9月末、俳人・金子兜太の名を冠した誌が刊行された。


今年2月20日に亡くなった金子兜太氏の名を冠した誌である。
年2回刊行、編集主幹は黒田杏子氏。
文芸総合誌として、幅広く兜太の唱えた「存在者」の志を継承して刊行していくという。

研究誌ではないが、意志を継ぐという誌、
創刊号は金子兜太へのオマージュに充ちた内容だが
号を重ねるごとにその道筋も定まっていくのだろう。

特定の歌人・俳人の名を冠する誌は、
その人への敬意にあふれた、次世代の人々による
さらなる一歩の道筋だろうと思う。
次世代の新たな視点によって、新しく歌人・俳人の魅力が拓かれることを願う。


2018
10.27

タケイ・リエ詩集『ルーネベリと雪』を読む

詩人タケイ・リエさんの新しい詩集『ルーネベリと雪』(七月堂)が刊行された。
26の詩編から成る、装幀も澄んでいて美しい詩集。





この詩集を拝読する機会をいただいて、短歌をやっている自分に、
とても静かで明るい時間と考えをもたらしてくださったように思う。

前半にあるのは、
乾いた様子をみせながら、
その実ひどく傷ついている雰囲気がある。
耐えながら、傷を傷と確かに認識しないで、そのまま過ごしている風だ。

しかし後半、
この詩集のタイトルにもなっている「ルーネベリと雪」からは
それまで重い曇天、雪空から降っていた雪はやみ、
雪野原がかがやいて眼前に広がるような
突き抜けた明るさと平明さのある詩編が出で来る。

転換点のように置かれた「ルーネベリと雪」は
その名の通りルーネベリの故郷らしき土地が描かれ、
土地のさまざまが象徴的に捉えられている。


十一月の終わりに世界は雪
街は雪をしっかりと抱きとめる
世界が雪を抱きとめるので
雪もたえまなく降り積もる
                               「ルーネベリと雪」部分



街、世界が雪を「しっかりと」抱きとめる場があること、場ができたこと
この詩の小さな言祝ぎが読み手にはうれしい。

2018
10.02

9月に思うこと・「チッうるせーな」と言う人と取り巻く人々

Category: 思フコト
長らく多忙のため、先月はまったく更新できませんでした・・
気持ち新たにできる限り綴っていきたいと思います。

まずは「9月に思うこと」から。
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LGBTに関する偏った見解を載せたとして、「新潮45」が休刊を発表した。
休刊となぜなのかと思う。たとえ「偏った」見解だとしても、
様々な意見を掲載し続け、問い続けることこそ、
さらに何等かの意味が見いだせるのではないのかと思ったのだけれど、
そうではないことになった。

思いがけず騒ぎが大きくなってしまったので、
そして鎮火しそうにもないので、
言葉は悪いが「チッ、うるせーな」とうるさがり、
「休刊」ということにしたように筆者は感じた。

これより先、福島市では、ヤノベケンジ氏が震災直後に発表した
「サン・チャイルド」像が同じような経緯を経て
「撤去」となっていた。これも思いがけず騒ぎが大きくなって、
展示をした側の市が早々に撤去を決めたのである。
なにも本質の問題には手つかずのままであったように思う。

この2つのことをつなげてしまうのは短絡だろうか。

けれども、ひとつの問題提起になる対象があり、
ある種の違和感を感じる人たちが、
そのことを訴え、対象を差し出した側がその違和感を受け止め、
双方で考えていくのではなく、
すぐその対象自体を抹消し、決着をはかる、
それ自体の問題の本質はまったく話されないままという流れである。


短歌に視線を向けてみると、岡井隆氏の歌

原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた
原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)


を思い出す。これは、震災後まもなくの2012年ころに発表した歌だ。
当時も話題になった歌だけれども、
それでも様々なところで問題提起ともなり、原発についての議論の糧ともなっていた。
そして、岡井氏はもちろん
「事故の被害者に不快な思いをさせた」などと謝罪したりはしなかったし
「チッうるせーな」などとして作品を取り下げたりはしなかったのだ。
誰もが真摯に、「そのこと」について考えた。そういう懸命な空気があった。


それが今や不寛容な、窮屈な空気に変わった。


一般の人たちであるはずの私たち自身が、
私たち自身の手で、「正しさ」をふりかざし、
言語警察、言葉狩りをやってのける。
そして狩られる前に回避する知恵を働かせる輩になった。

真におそろしいのは、かの首相が統べるからではなく、
国のなかの私たち自身なのだと今の今、実感する。
恐ろしい国になった。

追記(10/4)
内容についてわかりにくいとのご意見をいただきましたので追記します。

上記で筆者が提示した例は、
その人の見識が大きく関わっているというのが筆者の前提です。
デマを真実だと信じている人もこれにあたります。

端緒を切った、かの議員の差別発言は、
その人自身はまったく差別とは思っていないのでしょう。
彼女が差別だと思っていないということ自体について
理解するべくもっと考えなければならないのではないか。


子ども像にしても、
どうして不快に思う人たちがいるのか、
設置側はそのこと自体を考えることもありませんでした。
不快に思った人(私も含む)は、なぜ自分たちが不快に思うに至ったのか、
無理解者にくわしく理解してもらう機会を失いました。


議論する場自体がなくなったこと。
本質についての議論はなされないままであること。
それは考えることの後退だと思います。
時間をかけて、相互に理解していくことこそ大切なのではないかと思います



2018
07.30

7月に思うこと・『美しい顔』の現場性

北条裕子さんの小説『美しい顔』が芥川賞候補になり、
「盗作」騒ぎによって? 受賞作よりも話題をさらったまま、落選した。

この顛末は各所で述べられているので、触れるのは控えたく思うのだが、
震災で被災した者にしてみれば、唖然とするほかなかった。
その唖然の内容は、「盗作」という疑惑が現れたことではなく、
作者が「経験していない・現地に行っていない」ということが、
当初から疑惑以前に大きくクローズアップされていたことだ。

経験しないで、こんなにかけたのか、
経験しないので、やっぱりこの程度なのか
経験したのに、この程度なのか、
経験したので、こんなに書けたのか。

この四択でしかないのが、不寛容な感じがする。

三浦綾子氏の『泥流地帯』『続・泥流地帯』は、
かつての北海道・十勝岳噴火に材をとっていて、
三浦は取材に現地に行って、被災された方たちに話をきき、
詳細に記録をあたっている。(参考文献は記している)

しかし、作品化された『泥流地帯』は、
むしろ、ほとんどを登場人物たちの人物描写や性格付けに費やしていて、
泥流に襲われるのは巻尾の僅かな部分である。

描かれるのは、人間たちの平凡な、
(しかし個々にとっては己の生と格闘する日々でもある)
営みが一瞬にして無になる、
無に帰した人は、それ以降どんな風に生きるのかいうことが、軸である。
泥流に襲われることは、「無に帰す」ことのギミックでしかない。
(究極には、十勝岳噴火そのことである必要性はない)

『泥流地帯』がお手本であるとは思わないけれど、
災害を扱った作品として比較すると、骨格がよく見えてくると思う。

主題は描出の向こう側にある、と言いたい。
しかし、今回の作者は、そこへの到達もなかったし
(このことは選考総評で指摘されていたように思う)
評価する側も作者の「経験の有無・現地を踏んだか否か」ばかり気にしていたようのではないか。

短歌の世界も経験尊重だったことを考えれば、
通底するところは同じで、嘆息しかない。
どんな歌材を扱おうとも、材の向こうに何を見ているかなのだと思う。

今回の1件で、ますます震災を描く試みは遠のくのではないか。











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