2017
06.14

岩尾淳子さんの歌集『岸』を読む

未来短歌会に所属する岩尾淳子さんの第二歌集『岸』が刊行されました。

昨今、歌に奇を衒ったり、つくりこんだり、
またはイデオロギー一色であったりという
なにか過剰なものへの関心が寄せられるなかで、
岩尾さんの歌集『岸』は短歌ならではのしみじみとした感興を呼ぶと思う。


夕暮れて野球部員の均しゆく土より冬の背すじが浮かぶ

子を産んだ朝もあったな母がいて青鷺みたいにわたしを見てた

あらかじめ空には傷があることをきれいな鴉が教えてくれる

夏帽子かぶり直せばあこがれのように広がりゆく川の幅

ふつかほど家を空ければ花茎のすうっと伸びているアマリリス



教師として若い人たちと接する日々、ご両親と長くながく住む町の記憶、
そしてご自身とそばにいる方たちの生が
ほつほつと語るようにつづられていきます。
短歌を詠み、そして読者として読むことを改めて考えたいと思う歌集です。

水彩画のような淡い色彩と透明感が漂った装幀もすてきです。
さびしくて、でも静かな感じに身をひたすような。

ぜひお読みください。


2017
06.05

大松達知氏歌集『ぶどうのことば』

第4歌集「ゆりかごのうた」で牧水賞を受賞された
大松達知さんの最新歌集『ぶどうのことば』が刊行されました。

前歌集が育児の歌に占められていたのに比して、
本歌集は、教師として、父親として、夫としての何気ない日常に
題材を求めておられます。


おやすみを言はずに妻が寝てしまふ家族三人になつたころから

いちにちの心の疵によく効いて手足ぬくめるお湯割りの芋

不作法を新しいねと言ひかへて高校生に迎合すこし

妻の機嫌、娘の機嫌とりましてわれの機嫌は<白霧島>がとる

つきつめて思へば人と暮らすとは人の機嫌と暮らすことなり


家庭を持つこと、そのなかでの「相手」との関係性が
子を持つこと、子が育つことで見え方が変わってくる。
仕事は脂がのっている時期、しかし悩ましいことも多々ある。
中年に達した主体の溜息や喜びなどが、とてもあたたかい視点で描かれています。
社会との関りというのは、なにも社会問題に取り組むことではなくて、
こうして日常のさまざまから社会に繋がっていくのだとも思う。

「あたたかい」とはどうして思うのか。
しかし、とてもほっこりと、嘆いてはいるけれど
とてもほんわかと、日常がそこにある感じが、
心にしみ込んできました。

装幀には、真田幸治氏によるぶどうの蔓のような、
音符のような素敵なデザインがあしらわれています。
五線譜の上に踊るぶどうの粒粒は、家族が奏でるメロディのようだとも思いました。
楽譜を追って、(ここからは妄想ですが・・・汗↓)
モーツァルトのメヌエット(ニ長調 k355 とか・・)の明るくて清楚な曲を想像しました。
内容とぴったりです。


とてもよい歌集です。
ぜひお読みください。









2017
01.05

染野太朗歌集『人魚』を読む

まひる野に所属する染野太朗さんの第2歌集『人魚』。
ファンには待望の歌集であったのではないか。





しかし、印象はかなり違っていた。
・・・・「印象はかなり違っていた」という読後感はどこから来るのだろう、
というのは、
おそらく、作者である染野太朗さんの快活さをよく見知っているからだろう。

この『人魚』での主体は、どす黒い心を抱え、いつも抑圧されており、
例えば生活は離婚を経たりとうまくいかず、
日常としての性欲も満たされなかったり、すべてにおいて空虚で充実がない。
というよりそんな努力ももう放棄した虚無のかたまりとして主体がある。

そんな主体から産み落とされている歌には、「足がない」。
泳ぎ続けるしかない、人魚なのだ。
とても切ない。

ぼくの知らぬ過去が散らばる 教室の後ろでふいに筆箱落ちて

ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ

さびしさに濃淡がありぎんなんのにおいの中を蕎麦屋まで行く

セックスをいくつか思い出しながら満員電車の揺れに耐えいる

さくら咲かぬ春を生きたし水鳥の短い首を見つめるだけの



主体の持つトーンは、全篇ほぼ変化がない。
読み手が期待してしまう物語的な救済はついに現れない。

苦悩というものが、描かれて清らかな装幀に包まれるとき、
この歌集はもっとも残酷な歌集になったのではないかと思います。


2017
01.05

光森裕樹歌集『山椒魚が飛んだ日』を読む

明けましておめでとうございます。
旧年中はたいへんお世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年もできるだけ短歌について考えたこと、歌集歌書を紹介したり
していきたいと思います。
内容も日々見直してゆきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今年最初に読んだ歌集は、
光森裕樹さんの第三歌集『山椒魚が飛んだ日』です。




これまで、つねに短歌の世界のキュレーターであった光森さん。
短歌の情報サイトtankaful運営をはじめとして
歌集『鈴を産むひばり』は、これまで歌集出版専門の出版社ではない「港の人」から
活版印刷の歌集を、
歌集『うづまき管だより』は電子書籍で出されています。

この『山椒魚が飛んだ日』は、
主体のライフステージの変化について主に語られていく。
結婚、移住、子を持つこと。
あるいは可視的なこうした変化の中で、自他の存在そのものについて問うているのだと思う。
名づけ、そう呼ばれることで「それ」になっていくということ。


さみどりの胎芽が胎児に変はりゆく秋を一貫して吾なりき

からだから樹液のやうな汗をふき愛するひとが樹になつてゆく

母の名に〈児〉を足し仮の名となせる吾子の診療カードを仕舞ふ

妻となるひとりを知らぬ吾がゐて湯屋よりかへる雪踏みしめて

眼帯を付けれど他人にならざればボードブックをまた読みかへす



呼称と人称の行方、そして存在としての出現前後。
一首が問いに読者への溢れている。

非常に問いを含む歌集、光森さんの新たな境地が感じられる歌集です。





2016
10.25

沼尻つた子歌集『ウォータープルーフ』を読む

塔短歌会に所属する、沼尻つた子さんの第一歌集『ウォータープルーフ』。




「沼尻つた子」さんの生がみっしりと描かれているこの歌集。

かぎかっこのお名前にしたのは、あとがきにこんな文章があることからです。


「沼尻つた子」が歌集を出したのちにも、
「私」は暮らし、働き、短歌を詠み、生きていきます。


「私」は限りなく沼尻つた子さんに託して詠んでいく。
そして一個の物語にはしてはならないという決意も読み取れると思いました。


クレヨンの入り込みたる爪を切りティッシュに散らすビリジアンいろ

わすれてくれわすれないでくれわれのこと 帽子の名札は未だひらがな

PTA総会終えてママという蒸れた着ぐるみのチャックを下ろす

届き得るものに限りあるこの世われは冷たき脚立をひらく

名はたましい 知りてしまえば吾の前にたちあらわれる顔欠けしまま




時代と切り結ぶとはこういうことなのかと思う。

しっかりと確かに地に足をつけて沼尻つた子さんは詠っています。

今年はじめて、心にずっしりと来た歌集です。




back-to-top