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2018
10.02

9月に思うこと・「チッうるせーな」と言う人と取り巻く人々

Category: 思フコト
長らく多忙のため、先月はまったく更新できませんでした・・
気持ち新たにできる限り綴っていきたいと思います。

まずは「9月に思うこと」から。
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LGBTに関する偏った見解を載せたとして、「新潮45」が休刊を発表した。
休刊となぜなのかと思う。たとえ「偏った」見解だとしても、
様々な意見を掲載し続け、問い続けることこそ、
さらに何等かの意味が見いだせるのではないのかと思ったのだけれど、
そうではないことになった。

思いがけず騒ぎが大きくなってしまったので、
そして鎮火しそうにもないので、
言葉は悪いが「チッ、うるせーな」とうるさがり、
「休刊」ということにしたように筆者は感じた。

これより先、福島市では、ヤノベケンジ氏が震災直後に発表した
「サン・チャイルド」像が同じような経緯を経て
「撤去」となっていた。これも思いがけず騒ぎが大きくなって、
展示をした側の市が早々に撤去を決めたのである。
なにも本質の問題には手つかずのままであったように思う。

この2つのことをつなげてしまうのは短絡だろうか。

けれども、ひとつの問題提起になる対象があり、
ある種の違和感を感じる人たちが、
そのことを訴え、対象を差し出した側がその違和感を受け止め、
双方で考えていくのではなく、
すぐその対象自体を抹消し、決着をはかる、
それ自体の問題の本質はまったく話されないままという流れである。


短歌に視線を向けてみると、岡井隆氏の歌

原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた
原子力は魔女ではないが彼女とは疲れる(運命とたたかふみたいに)


を思い出す。これは、震災後まもなくの2012年ころに発表した歌だ。
当時も話題になった歌だけれども、
それでも様々なところで問題提起ともなり、原発についての議論の糧ともなっていた。
そして、岡井氏はもちろん
「事故の被害者に不快な思いをさせた」などと謝罪したりはしなかったし
「チッうるせーな」などとして作品を取り下げたりはしなかったのだ。
誰もが真摯に、「そのこと」について考えた。そういう懸命な空気があった。


それが今や不寛容な、窮屈な空気に変わった。


一般の人たちであるはずの私たち自身が、
私たち自身の手で、「正しさ」をふりかざし、
言語警察、言葉狩りをやってのける。
そして狩られる前に回避する知恵を働かせる輩になった。

真におそろしいのは、かの首相が統べるからではなく、
国のなかの私たち自身なのだと今の今、実感する。
恐ろしい国になった。

追記(10/4)
内容についてわかりにくいとのご意見をいただきましたので追記します。

上記で筆者が提示した例は、
その人の見識が大きく関わっているというのが筆者の前提です。
デマを真実だと信じている人もこれにあたります。

端緒を切った、かの議員の差別発言は、
その人自身はまったく差別とは思っていないのでしょう。
彼女が差別だと思っていないということ自体について
理解するべくもっと考えなければならないのではないか。


子ども像にしても、
どうして不快に思う人たちがいるのか、
設置側はそのこと自体を考えることもありませんでした。
不快に思った人(私も含む)は、なぜ自分たちが不快に思うに至ったのか、
無理解者にくわしく理解してもらう機会を失いました。


議論する場自体がなくなったこと。
本質についての議論はなされないままであること。
それは考えることの後退だと思います。
時間をかけて、相互に理解していくことこそ大切なのではないかと思います



2018
07.06

6月に思ったこと・村上春樹氏の短編小説をめぐって

Category: 思フコト
月1回の「思うこと」、
6月に挙げるはずがずいぶん遅くなってしまいました。
以下、思うところ書いていきます。

六月七日発売の文學界七月号に、
村上春樹氏の新作短編「三つの短い話」が掲載されている。




なかの「石のまくらに」という作品には
短歌がモティーフとして使われている。
ざっくりとしたあらすじはこんな風だ。

 「僕」が二十歳くらいのとき、
アルバイトの同僚で二十代半ばの女性と一夜を共にする。
その女性の同僚は少し風変わりで、短歌を書いているという。

読みたいという「僕」の願いによって、
一週間後、「僕」の家には自作の歌集が送られてくる。
糸で綴じた限定部数の私家版の歌集である。
以来、女性とは二度と会うことなかったが、
「僕」は読み返して女性を想う。
 この作品中の短歌は、たとえばこんなものだ。

石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
流される血の/音のなさ、なさ

今のとき/ときが今なら/この今を
ぬきさしならぬ/今とするしか

やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく
あじさいの根もとに/六月の水

 一読、短歌に親しんだ人なら違和感を覚えるに違いない。
表記自体や句またがり、
そして内容についても意味がとれないのである。
二首目は有限な今という時間を、
三首目は斬首のイメージが濃厚で、死を連想させる。
そもそも石枕は古墳時代に死者の葬りに使用された事実もあるから、
ここでの「石のまくら」はそうでないにしても、死のイメージは想起できる。

作中の「僕」は、
「僕の心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた。」というのである。
この主人公の「僕」が提示する読み方に従って、
そのように機能するように、
作中の要素として「僕」たちのエピソードと連結して置かれている、ということになる。
 ここで二つのことを考える。

一つ目は、作品中に挿入された短歌が、
同僚の女性を投影したものとして機能しているかどうか、である。
読み手が登場人物のエピソードを読んできて、
挿入された短歌の部分と連結するときに、
挿入された短歌は、前述までの人物像を補強するものであるかどうかである。
今回の小説の場合、少なくとも、同僚女性の人物像にあわせて、
意図的に奇妙な感じの短歌に仕上げてあったとしても、
なお連結するのに有効な仕掛けとはいいにくい。

もう一つは、かの『源氏物語』がこの「石のまくら」と同じ方法をとっていたということだ。
『源氏物語』の場合、各登場人物の人物像と
挿入された和歌は完全に連結している。
すなわち、挿入和歌以前に述べられる登場人物の心情や状況と、
そのあとにくる歌に齟齬がない。
相互に補強しあう関係を持ち、連結して物語世界をより深みのあるものにしている。
今回の連結の方法は、
あるいは散文と歌、詞書と歌、歌と歌といった連結の方法にも応用することはできる。
相互に補強し合い、それぞれ連結して無理のない流れをつくることは、
作品世界の完成度を高めるために必要なものだ。

少し前、歌の世界をにぎわしたフィクションの問題についても、
遡って同様なことが言えるだろう。
つまり、フィクションとして作品を提示するならば、
隙間のない、完璧な連結が必要となる。

しかし今回の村上氏の作品は、
とりわけ短歌をやっている人にはなかなか受容が難しい「歌」だった。
あるねらいがあったとしても、成功しているとはいいがたい「歌」だった。
(一般の読者のなかには、「女性」のキャラによくあっているという評価もある模様)

作品を多く流通させることは、なかなか難しい。
2018
05.25

5月に思うこと・歌集にできること

Category: 思フコト
加藤治郎氏の『Confusion』(書肆侃々房)が刊行された。





『Confusion』は、confusion(混乱・当惑)のタイトルが示すとおり、
読み手にある混乱を呼び起こす歌集だ。
レイアウトと装幀は若い詩人ユニット、「いぬのせなか座」が手掛け、
外観からすでにアグレッシプな雰囲気を醸している。
ぺージを繰れば歌は頁のすみずみに飛び散り、
まるで浮遊する文字群が読み手へ挑みかかるようである。

生命保険の最終プランを提示され端的に紙屑のようなり

集中にある歌である。この歌はこのように示されれば、
人生をたった1枚の紙に記されて、
「最終プラン」の例示として掲載されていることへの
主体の憤りと嘆息を詠った歌としてあるだろう。

しかし、この集のなかでは、
この歌の右横には真っ黒な短冊のような2センチ幅の黒塗り部分があり、
その上部に「二〇一六年四月二十六日。」という詞書状の日付が置かれている。

このレイアウトを併せると、読み手には黒塗り部分さえ視覚的に大きな意味をもったものとして迫り、
歌自体もまた言い得ない情動のようなものが加算されていく。
つまりは読み手の側に新たな情動を沸き起こさせる装置として機能するのである。

一方で、これは「いぬのせなか座」とのコラボレーションのなかで立ち上がった表現ではある。
加藤氏の歌と、詩人である「いぬのせなか座」の人たちが化学反応を起こすことで、
可能となった表現でもある。
加藤氏自身がこの表現を単独で生み出せたか否か。
テクストとして成立するための前提も「confusion」がもたらされている。

『Confusion』は、まさしく従来の歌集観の破壊からはじめて、
歌集に含まれるいっさいのパラテクスト
(本を取り巻くもの・前述した装幀や表記なども含めての外的要素)
に関しても改めて厳しく問うたものだ。

歌集という紙の媒体の「場」がもつあらゆる可能性と力量を鑑みて、
その媒体が発揮できる能力を
惜しみなく・あますところなく出力させしめた結晶として読み手の前に立ちはだかる。

2018
03.21

3月に思うこと・型のなかの型

Category: 思フコト
岩手・北上市にある
日本現代詩歌文学館が発行している、館報「詩歌の森」。

このほど発行された第82号から、
短歌時評を加藤治郎氏が担当している。
第1回目は「景と思索」。
現代短歌の動向を、最新の歌集から改めて照射する論考だ。

ここで加藤次郎氏が言うのは、
実景に主体の思索を織り込む方法論の一つ。
きわめてオーソドックスな希求である。

筆者がはじめ意外に思ったのは、
その主張を加藤氏がしていることだったが、
しばらくして、それは表面的な見方であるのだと改めて打ち消した。

口語短歌の最前線の牽引者として、
あるいは若い歌人の卵を孵化させるキュレーターとして、
つねにアップデイトしている加藤氏の根底には、
しかしやはり従来からの短歌の基礎が厳然としてある。

いわば定型の上に、さらに表現の定型が生きているからこそ、
読めるし詠めるのだ。そしてこの論考は
改めて短歌という詩型を考えさせる論考であったと思う。

巷に横溢する「短歌」とは何か。
もう一度深く問うてみる必要があると思う。


2018
02.21

2月に思うこと・軌跡を振り返る

Category: 思フコト
「現代詩手帖」2月号の特集は、「21世紀の批評のために」。



2000年代以降の詩の批評について、検証や具体例を挙げながら、
様々な詩人が思考を深めている。

さらに美術手帖3月号の特集は「言葉の力。」


言語表現の現在地を改めて問い、
ここ10年ほどの言語表現の世界の動向や未来への試行を詳細に特集している。

こうしたこれまでの「検証」がひとつ纏まった単位で行うことが可能になったと同時に、
振り返ってみると、短歌の世界は流れに逆行しているのではという感じがしている。

昨年には「歌会こわい」トピックが話題になったことは記憶に新しい。
歌会で自らの歌を批評されたり、あるいは他の参加者の歌を批評する言葉を持つことは、
批評野の最小単位であると思うのだが、
それさえ恐れを抱く要素になってしまうとなると、
なかなか短歌の批評野は豊かになっていかないのではないか。

まずはできる人から、自分から、そして志を同じくする人たちから
少しでも短歌の批評について、あるいはその地平をつなげていくことについてを
考えていくことが必要なのではないか。







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