2018
02.21

2月に思うこと・軌跡を振り返る

Category: 思フコト
「現代詩手帖」2月号の特集は、「21世紀の批評のために」。



2000年代以降の詩の批評について、検証や具体例を挙げながら、
様々な詩人が思考を深めている。

さらに美術手帖3月号の特集は「言葉の力。」


言語表現の現在地を改めて問い、
ここ10年ほどの言語表現の世界の動向や未来への試行を詳細に特集している。

こうしたこれまでの「検証」がひとつ纏まった単位で行うことが可能になったと同時に、
振り返ってみると、短歌の世界は流れに逆行しているのではという感じがしている。

昨年には「歌会こわい」トピックが話題になったことは記憶に新しい。
歌会で自らの歌を批評されたり、あるいは他の参加者の歌を批評する言葉を持つことは、
批評野の最小単位であると思うのだが、
それさえ恐れを抱く要素になってしまうとなると、
なかなか短歌の批評野は豊かになっていかないのではないか。

まずはできる人から、自分から、そして志を同じくする人たちから
少しでも短歌の批評について、あるいはその地平をつなげていくことについてを
考えていくことが必要なのではないか。







2018
01.23

1月に思うこと・新人賞の季節

Category: 思フコト
また今年度の新人賞が出そろう季節になった。

総合誌それぞれに新人賞が設定され、また第一歌集対象にも新人賞があり、
それぞれ毎年「新人」が送りだされているのだけれど、
いったい、「新人」とは何だろうと思うことがある。

新人というと、年齢的若年のイメージがあるが、
応募作品には年齢的には若い、とは言えない方々もおられる。
だとすれば、歌歴的に新人ということか。
一方で、歌歴の非常に長い歌人が新人賞になったことがあった。
だとすれば、歌歴も不問ということになる。

いったい、新人とは何か。

新規な方法で描いている人なのだろうか。
審査に当たった人たちとの作品の出会いがそのすべてを決定するし、
いつも歌壇は新規な、革命的な人を求めてやまない。
だけれど、それは歌人たちが持つ共同幻想に過ぎないのではないかと思う。
新規なものは、いつか古びる。そして飽く。

いつも書くことだけれど、新人賞がすべてではない。
自らの歌を見つける道、日常的な歌との日々が
歌の軌跡になってゆく.なのではないか、いつもそう思っている。



2017
12.18

12月に思うこと・職業詠ということ

Category: 思フコト
首都圏(あるいは都市、といったほうがいいのか)
から遠く離れて暮らしていると、
都市特有の短歌の伝播のしかたがあるように思う。

それはイベントの開催である。
たとえば、それぞれの自分自身の環境で、散り散りに活動している歌人たちが、
同人誌を編む、あるいはそれぞれの歌集を編む。

その頒布や理解を深めるために、人を集めて読む会を開く。
批評会、コミケ、その他にしてもいずれ人が集まる。
パネラー(あるいは演者)を立て、話し、休憩をいれて、一般参加者も参加する。

都市ではこの形式によって大学などの文化的環境(学会ではない)や
音楽系のストア、書店でも催されているのに驚く。
多くは上記のような「定型」があって、粛々と会は進む。

地方ではそんなイベントはあまり見かけない。
あるのは大型商業店でのちびっこ向けイベントか
地元の学校の学園祭くらいなものだ。
それを思うにつけても、こうしたイベントは、
都市が持つ固有の文化の在り方だとも思う。

「定型」があることにも是非はあって、
なかにはそれぞれがてんでに発言し、
何らの進展もないものもあって、いったいこの「会」には
どんな形が理想の着地だったのか、考えてしまうことがある。

また来年も様々なイベントが開かれることだろう。
歌会に参加することについて、
大きく意見が交わされた年であったけれども、
イベントの在り方、自身の参加のしかたも
考えてみることも必要なのかもしれないと考える。












2017
11.19

11月に思うこと・評論という文体

Category: 思フコト
私事だが、大学時代の恩師がさきごろ亡くなり、
先週は偲ぶ会が行われるというので、出かけてきた。

偲ぶ会では学生時代には触れ得なかった恩師の人となりや生の歩み、
思考などが教え子の人たちによって語られて、
学生時代、もっとも身近であったはずの恩師の像が、
実は自分にとってひとつの断片に過ぎず、
会ではじめて恩師の全体像がくきやかに結んだような気がしたのである。

会に伺うにあたって、書棚の奥から恩師の書いた評論の書籍を取り出した。
恩師は中野重治の研究者であった。
学生時代から遠く離れて読む師の評論は、
研究者として緻密な視点にあふれ、それでいてわかりやすく
確実に伝わるように考え抜かれて言葉が選ばれているようであった。
決して難解な・詰問的な・あるいは学術的な高潔な雰囲気に覆われた雰囲気ではなかった。

そして自分は、いまさらのように思うのだが、評論にも文体があるのだと
あらためて思った。書き手の人となり、思考、伝える姿勢、
そうした「人間」は、なにも短歌でなくとも、その表出に現れる。
かりに隠そうと思っても、その人となりは確実に表れる。
恐ろしいことであり、また素晴らしいことでもある。
私たちは書いたもののほかに、
その人そのものの考える森を何度も歩くことが出来るのだから。








2017
10.17

10月に思うこと・女性と表現

Category: 思フコト
先月下旬に刊行された「早稲田文学」増刊号は、
川上未映子氏の手に依る特別編集で、「女性と表現」がテーマ。



短歌の世界からは栗木京子氏、東直子氏や雪舟えま氏が名前を連ねている。
11月26日には早稲田大学でシンポジウムも開かれるという。
(9月には刊行記念のイベントもすでに開催)
↓↓
早稲田文学・女性号シンポジウム

川上氏は巻頭言の中で、「古くて白けて今更フェミニズム」の空気があるなかで、
今、すべてのそうした空気なり問題点なりを記録しておきたいとしている。
http://www.mieko.jp/blog/2017/09/02/1881.html
かけがえのない試みだと思う。
最近、短歌の世界でもフェミニズムへの問いが勃興したが、
大きなうねりにならないまま終わった。

そうしたなかで、関西の女性歌人たちが同人誌「ぱらぴゅるい」を刊行した。
こちらは尾崎まゆみさんらが関わって、
関西在住の女性歌人が世代を越えて集い、短歌について綴り、語る。

なぜ女性だけ?その問いは、
早稲田文学の川上氏の巻頭言に書かれていることもつながっていくだろう。

「女性であること」をとりあげるとき、「古くて白けて今更フェミ」感がつきまとう。
しかし、「女性であること」をもう一度深く考える角度で、
この「ばらぴゅるい」を拝読することも必要であると思う。










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