2017
06.18

6月に思うこと・言葉の野を豊かに

Category: 思フコト
「組織的犯罪処罰法改正案」が成立した。
今後形成されていく、世の中の空気や人の動き、
そして表現についても懸念は尽きないが、
ひるむことなく表現を続けていきたい。

今回に限らず、毎回、何らかの法案成立前後に発せられる言葉に、非常に違和感がある。

「安倍は死ね」からはじまり、
「徴兵制だ」「戦争法だ」「総監視社会がはじまる」
「日本は終わった」といって、
法案そのものの内容が1だとしたら、
尾ひれをつけて、または大げさに内容を誇張して
3か4まで過剰に煽っている。そんな人のなんと多いことか。
本当の内容はどこまでなのか、結局よくわからなくなってしまって、
かえって筆者は白けた。

思い返せば、こんなことはもうずっと続いているのだな、と感じる。
筆者は原発事故被災地に住んでいるが、
その国道沿いを居住者が心を尽くして清掃しようものなら「人殺し」といわれ、
夏、地元の人たちが尽力して、やっと海開きにこぎつけた海水浴場を
「殺人海水浴場だ」といってくる。
汚染が恐ろしいからと発せられる言葉なのは
十分理解できるのだけれども、ひどい言葉だと思う。
反論するのもばかばかしく、黙っていれば、
「もっと怒れ、なぜ怒らないのか」と強いられる。
怒ってすべて元通りになるなら、怒るだろう。
しかしそうではないのだから、すべては空しい。
私たちが怒っていないことにしてしまっているその人たちに、本質を見る目はない。
すでに私たちの「内心の自由」は、強いてくる人たちの「正義」によって奪われている。
そんなことがもう何年も続いている。

私たちは短歌をやっている。
言葉を扱っているのである。言葉はていねいに選び、扱いたい。
事実に尾ひれをつけて内容を誇張し、憎悪ばかり増幅して
伝えていることにあまりに無自覚な人がいる。

彼らはそれが「正義」だと思っているのがなおさら悲しい。
筆者からしてみれば、すでに「抗議」ではなく「罵倒」でしかない。
そんな人たちとは、これまでも、そしてこれからも、決して共闘はしない。

事実は事実そのまま、それ以上でも、それ以下でもない。
反対するとしても、事実を吟味して粛々と行いたい。
せめて自らの言葉の野は豊かに保ちたいものだと思う。





2017
05.17

5月に思うこと・「わかる」がわかる

Category: 思フコト
『公募ガイド』五月号での特集は
「つぶやくように詠おう・ツイートする短歌」。




巷の公募ファンには有名な雑誌だが、短歌の特集を組むのは珍しい。

巻頭の見出しには「SNSを中心に若いひとたちの間で短歌がブームです」と大きく置く。
「短歌のカジュアル化」を紹介し、
鳥居・木下龍也両氏へのインタビュー、
「ケータイと親和度大」「大学生に短歌ブーム」「ニコニコと月刊『短歌』がコラボ」
「短歌作りキット」「作歌の方法 足し算法と引き算法」など
活況の様子や作歌方法まで、幅広いトピックが並ぶ。

短歌の入り口に立った人も、
迷いなく短歌を親しんでいけるように間口が大きい。 
すなわち、この特集は短歌の作り方がやさしく「わかる」のだ。
わかりやすい作歌方法、わかりやすい歌の発表のしかたが「わかる」特集なのである。

少し前の「わからない歌」論議から、わかること、わかりやすいことの
価値付けがすすんでいるように思える。
『歌壇』でも「わからない歌への対処法」という特集が組まれ、
「わからない」ということに「対処」しなければならない空気が流れている。

しかし、わかる、ことは絶対に必要なのか。
すべてわかったら、逆に「読み」はフラットになるのではないか。
「読み」に幅が出る歌、きちっとある事柄を規定する歌、
どちらも存在してこそ、読み手は楽しみ、歌の世界は深まっていくのではないか。
「わかる」ことがわかる、わかりやすいことが正義、
そんな空気を一表現者として疑う。


2017
04.18

4月に思うこと・世界には男と女だけか

Category: 思フコト
瀬戸夏子氏の角川『短歌』の時評
「死ね、オフィーリア、死ね」と題された論考が4月号で完結した。

とても共感したり、年嵩の歌人として
彼女にここまで書かせてしまうことの申し訳なさも感じたが、
性差別への指摘のほかに、
セクシュアル・マイノリティについての考察が
ほとんど見られなかったことが気になった。  

ジェンダーへのセンシティブな問いを辿っていくなかで、
自分には、佐竹游氏の歌集『草笛』(二〇一四年・現代短歌社)が想起される。

 嫌悪感あらはにからだ捩ぢりたり受胎告知をなされてマリア
 

 同性愛揶揄して笑ふ席に居てわれはひとりを黙しつつをり
 

 レスビアンと名告れば職を失ふぞと或る物書きが忠告しくれき


この歌集では、レズビアンと呼称されるセクシュアル・マイノリティと、
その葛藤や孤独、そして社会的差別を自らの歌の上に問うている。
著者の佐竹氏は歌集のあとがきにおいて、
自身がこれまで関わってきたフェミニズム研究への取り組みを述べ、
さらに自らの性的指向について述べたこの歌集が、
「レズビアンであることの生き難さがテーマのひとつ」と記している。

本歌集について特集された『八雁』(2015年7月号)では、
黒瀬珂瀾・島田幸典・金井淑子(立正大学文学部哲学科元教授・女性学研究者)の
三氏がそれぞれ評を寄せている。

「これらの歌は、広大な世界での〈私〉の位置の問い直しであり、
現実社会で摩滅させられた〈私〉の生の奪還である。(黒瀬珂瀾氏)

「すなわち、私とは何かという問いに積極的な回答や定義を与えるのではなく、
むしろ存在の言いがたさ、存在と言葉のあいだに生まれる亀裂と乖離、
そこに佐竹の歌は焦点を結ぶのである」(島田幸典氏)


「私も、女性の表現にとっての短歌という形式のもつ意味に着目し、
短歌や詩的表現が、身体性を介した表現の場であり、
女性の経験の「臨床の声の場」としての可能性を見てきた」(金井淑子氏)


今挙げた三氏にそれぞれ通底するのは「個」「私」についてである。
たとえば、瀬戸氏はこの『草笛』をどう読むのだろうか。

瀬戸氏が激しく指摘した歌壇における性差別への問いは、
今後の氏自身へ立ち還っていくことなのだと思う。

歌壇へ何らかの応答や改善を期待するのではなく、
自らの作品や文章によってどのようにこれらの問題に向き合っていくのかにあると思う。
「他」からどんな扱いを受けたか、ではなく、
すべては「個」のありかたに帰結する。

時評もまだ続く。今後を楽しみにしたい。
2017
03.18

3月に思うこと・授受関係という他者

Category: 思フコト
書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」も第3期に入っており、
このたび、加藤治郎氏監修・鈴木美紀子さんの歌集『風のアンダースタディ』が刊行された。

一読してみて、鈴木さんの歌の特徴として、
授受の関係の濃く浮きあがってくる場合の多いことに気が付く。


きみはまたわたしの角を折り曲げるそこまで読んだ物語として
                              「小さな螺子」

見えなくてもそばにいるよと囁かれプロンプターの言いなりになる
                              「私小説なら」

わたくしをおぼえていたいひとがいてうすむらさきの付箋を選ぶ
                            「打ち明けるゆび」

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
                             「無呼吸症候群」

一首目、きみがわたしにやること、読みかけのページのように「折り曲げる」。
「わたし」は受動である。二首目も囁かれて「言いなりになる」主体の描写がある。
三首目、「おぼえていたいひと」の存在があり、主体自身は「おぼえていたい」のかは不明である。
四首目、非常に近しい他者の病気と思われる症状を「おしえない」という主体。

挙げた歌のほかにも、他者との関係のなかから
自らの位置を描写した歌がかなり多い。

それは相聞歌とひとことで括ってしまうのではなくて、
この主体の自らを照射させる手法にあるのだろう。
主体は、相手に働きかけることは少なく、
専ら他者の関係の中にある主体自身を描写していく。

短歌のデフォルトは、主体自身を描くことではじまっていくが、
他者からのの無数の関係性を描写していくことで、主体を際だたせていく、
そんな「授受」の表現から生まれる主体の存在もあるのだと気付かされる。



2017
02.17

2月に思うこと・傾れる人たち

Category: 思フコト
短歌結社「氷原」の主宰であった、石本隆一氏の
評論活動の集大成、『石本隆一評論集成』(現代短歌社)が出た。

さきに刊行された『石本隆一全歌集』とともに、
紡いできた歌業を俯瞰可能なものとするとともに、
歌人研究もさらに進むことが期待される。

本集は八章にわかれ、歌人論、随想、作歌指導など多彩な内容だが、
このなかでひときわ印象的なのが、
石本が担当していた当時の時評を収めたⅣの「短歌時評集」である。
文芸誌・短歌総合誌・新聞など、その執筆の場も様々だが、
石本の姿勢はつねに一貫している。たとえば


報道記事や映像の単なる印象断片を歌にしつらえて、
進歩的文化人たるための免罪符としようとするものもいるだろうし、
せっかく鬱積しているエネルギーを手軽に排泄してしまう歌人が多くなれは、
本質的に、かえって有害であろう。
めいめいの片隅の生活のなかには、
ベトナム問題以上に凝視して訴えるべきものはないのであろうか。
何よりも短歌はいかなる道具にも供されてはなるまい。
「ベトナム詠」(昭和四二・四)
                文藝春秋「短歌」時評


などと、そのときの社会を揺るがすもなんらかの大きな問題が勃興したとき、
歌壇の人々が容易に一方向へ傾れていく性質を持ちあわせていることへの危惧が見えてくる。

石本が角川「短歌」の編集者であったり「氷原」の主宰であったりという、
ある意味で中庸で広汎な視点を要求される
社会的な位置にあったことを差し引いても、
つねに目の前の「俗」が今、何を欲しているか、
そしてその是非について、を
よく見極める透徹した視点を持っていたことが明らかだし、
この視点は大きく社会が動く現在においても等しく通じる点があるように感じる。

back-to-top