2018
05.25

5月に思うこと・歌集にできること

Category: 思フコト
加藤治郎氏の『Confusion』(書肆侃々房)が刊行された。





『Confusion』は、confusion(混乱・当惑)のタイトルが示すとおり、
読み手にある混乱を呼び起こす歌集だ。
レイアウトと装幀は若い詩人ユニット、「いぬのせなか座」が手掛け、
外観からすでにアグレッシプな雰囲気を醸している。
ぺージを繰れば歌は頁のすみずみに飛び散り、
まるで浮遊する文字群が読み手へ挑みかかるようである。

生命保険の最終プランを提示され端的に紙屑のようなり

集中にある歌である。この歌はこのように示されれば、
人生をたった1枚の紙に記されて、
「最終プラン」の例示として掲載されていることへの
主体の憤りと嘆息を詠った歌としてあるだろう。

しかし、この集のなかでは、
この歌の右横には真っ黒な短冊のような2センチ幅の黒塗り部分があり、
その上部に「二〇一六年四月二十六日。」という詞書状の日付が置かれている。

このレイアウトを併せると、読み手には黒塗り部分さえ視覚的に大きな意味をもったものとして迫り、
歌自体もまた言い得ない情動のようなものが加算されていく。
つまりは読み手の側に新たな情動を沸き起こさせる装置として機能するのである。

一方で、これは「いぬのせなか座」とのコラボレーションのなかで立ち上がった表現ではある。
加藤氏の歌と、詩人である「いぬのせなか座」の人たちが化学反応を起こすことで、
可能となった表現でもある。
加藤氏自身がこの表現を単独で生み出せたか否か。
テクストとして成立するための前提も「confusion」がもたらされている。

『Confusion』は、まさしく従来の歌集観の破壊からはじめて、
歌集に含まれるいっさいのパラテクスト
(本を取り巻くもの・前述した装幀や表記なども含めての外的要素)
に関しても改めて厳しく問うたものだ。

歌集という紙の媒体の「場」がもつあらゆる可能性と力量を鑑みて、
その媒体が発揮できる能力を
惜しみなく・あますところなく出力させしめた結晶として読み手の前に立ちはだかる。

2018
03.21

3月に思うこと・型のなかの型

Category: 思フコト
岩手・北上市にある
日本現代詩歌文学館が発行している、館報「詩歌の森」。

このほど発行された第82号から、
短歌時評を加藤治郎氏が担当している。
第1回目は「景と思索」。
現代短歌の動向を、最新の歌集から改めて照射する論考だ。

ここで加藤次郎氏が言うのは、
実景に主体の思索を織り込む方法論の一つ。
きわめてオーソドックスな希求である。

筆者がはじめ意外に思ったのは、
その主張を加藤氏がしていることだったが、
しばらくして、それは表面的な見方であるのだと改めて打ち消した。

口語短歌の最前線の牽引者として、
あるいは若い歌人の卵を孵化させるキュレーターとして、
つねにアップデイトしている加藤氏の根底には、
しかしやはり従来からの短歌の基礎が厳然としてある。

いわば定型の上に、さらに表現の定型が生きているからこそ、
読めるし詠めるのだ。そしてこの論考は
改めて短歌という詩型を考えさせる論考であったと思う。

巷に横溢する「短歌」とは何か。
もう一度深く問うてみる必要があると思う。


2018
02.21

2月に思うこと・軌跡を振り返る

Category: 思フコト
「現代詩手帖」2月号の特集は、「21世紀の批評のために」。



2000年代以降の詩の批評について、検証や具体例を挙げながら、
様々な詩人が思考を深めている。

さらに美術手帖3月号の特集は「言葉の力。」


言語表現の現在地を改めて問い、
ここ10年ほどの言語表現の世界の動向や未来への試行を詳細に特集している。

こうしたこれまでの「検証」がひとつ纏まった単位で行うことが可能になったと同時に、
振り返ってみると、短歌の世界は流れに逆行しているのではという感じがしている。

昨年には「歌会こわい」トピックが話題になったことは記憶に新しい。
歌会で自らの歌を批評されたり、あるいは他の参加者の歌を批評する言葉を持つことは、
批評野の最小単位であると思うのだが、
それさえ恐れを抱く要素になってしまうとなると、
なかなか短歌の批評野は豊かになっていかないのではないか。

まずはできる人から、自分から、そして志を同じくする人たちから
少しでも短歌の批評について、あるいはその地平をつなげていくことについてを
考えていくことが必要なのではないか。







2018
01.23

1月に思うこと・新人賞の季節

Category: 思フコト
また今年度の新人賞が出そろう季節になった。

総合誌それぞれに新人賞が設定され、また第一歌集対象にも新人賞があり、
それぞれ毎年「新人」が送りだされているのだけれど、
いったい、「新人」とは何だろうと思うことがある。

新人というと、年齢的若年のイメージがあるが、
応募作品には年齢的には若い、とは言えない方々もおられる。
だとすれば、歌歴的に新人ということか。
一方で、歌歴の非常に長い歌人が新人賞になったことがあった。
だとすれば、歌歴も不問ということになる。

いったい、新人とは何か。

新規な方法で描いている人なのだろうか。
審査に当たった人たちとの作品の出会いがそのすべてを決定するし、
いつも歌壇は新規な、革命的な人を求めてやまない。
だけれど、それは歌人たちが持つ共同幻想に過ぎないのではないかと思う。
新規なものは、いつか古びる。そして飽く。

いつも書くことだけれど、新人賞がすべてではない。
自らの歌を見つける道、日常的な歌との日々が
歌の軌跡になってゆく.なのではないか、いつもそう思っている。



2017
12.18

12月に思うこと・職業詠ということ

Category: 思フコト
首都圏(あるいは都市、といったほうがいいのか)
から遠く離れて暮らしていると、
都市特有の短歌の伝播のしかたがあるように思う。

それはイベントの開催である。
たとえば、それぞれの自分自身の環境で、散り散りに活動している歌人たちが、
同人誌を編む、あるいはそれぞれの歌集を編む。

その頒布や理解を深めるために、人を集めて読む会を開く。
批評会、コミケ、その他にしてもいずれ人が集まる。
パネラー(あるいは演者)を立て、話し、休憩をいれて、一般参加者も参加する。

都市ではこの形式によって大学などの文化的環境(学会ではない)や
音楽系のストア、書店でも催されているのに驚く。
多くは上記のような「定型」があって、粛々と会は進む。

地方ではそんなイベントはあまり見かけない。
あるのは大型商業店でのちびっこ向けイベントか
地元の学校の学園祭くらいなものだ。
それを思うにつけても、こうしたイベントは、
都市が持つ固有の文化の在り方だとも思う。

「定型」があることにも是非はあって、
なかにはそれぞれがてんでに発言し、
何らの進展もないものもあって、いったいこの「会」には
どんな形が理想の着地だったのか、考えてしまうことがある。

また来年も様々なイベントが開かれることだろう。
歌会に参加することについて、
大きく意見が交わされた年であったけれども、
イベントの在り方、自身の参加のしかたも
考えてみることも必要なのかもしれないと考える。












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