2017
11.19

11月に思うこと・評論という文体

Category: 思フコト
私事だが、大学時代の恩師がさきごろ亡くなり、
先週は偲ぶ会が行われるというので、出かけてきた。

偲ぶ会では学生時代には触れ得なかった恩師の人となりや生の歩み、
思考などが教え子の人たちによって語られて、
学生時代、もっとも身近であったはずの恩師の像が、
実は自分にとってひとつの断片に過ぎず、
会ではじめて恩師の全体像がくきやかに結んだような気がしたのである。

会に伺うにあたって、書棚の奥から恩師の書いた評論の書籍を取り出した。
恩師は中野重治の研究者であった。
学生時代から遠く離れて読む師の評論は、
研究者として緻密な視点にあふれ、それでいてわかりやすく
確実に伝わるように考え抜かれて言葉が選ばれているようであった。
決して難解な・詰問的な・あるいは学術的な高潔な雰囲気に覆われた雰囲気ではなかった。

そして自分は、いまさらのように思うのだが、評論にも文体があるのだと
あらためて思った。書き手の人となり、思考、伝える姿勢、
そうした「人間」は、なにも短歌でなくとも、その表出に現れる。
かりに隠そうと思っても、その人となりは確実に表れる。
恐ろしいことであり、また素晴らしいことでもある。
私たちは書いたもののほかに、
その人そのものの考える森を何度も歩くことが出来るのだから。








2017
10.17

10月に思うこと・女性と表現

Category: 思フコト
先月下旬に刊行された「早稲田文学」増刊号は、
川上未映子氏の手に依る特別編集で、「女性と表現」がテーマ。



短歌の世界からは栗木京子氏、東直子氏や雪舟えま氏が名前を連ねている。
11月26日には早稲田大学でシンポジウムも開かれるという。
(9月には刊行記念のイベントもすでに開催)
↓↓
早稲田文学・女性号シンポジウム

川上氏は巻頭言の中で、「古くて白けて今更フェミニズム」の空気があるなかで、
今、すべてのそうした空気なり問題点なりを記録しておきたいとしている。
http://www.mieko.jp/blog/2017/09/02/1881.html
かけがえのない試みだと思う。
最近、短歌の世界でもフェミニズムへの問いが勃興したが、
大きなうねりにならないまま終わった。

そうしたなかで、関西の女性歌人たちが同人誌「ぱらぴゅるい」を刊行した。
こちらは尾崎まゆみさんらが関わって、
関西在住の女性歌人が世代を越えて集い、短歌について綴り、語る。

なぜ女性だけ?その問いは、
早稲田文学の川上氏の巻頭言に書かれていることもつながっていくだろう。

「女性であること」をとりあげるとき、「古くて白けて今更フェミ」感がつきまとう。
しかし、「女性であること」をもう一度深く考える角度で、
この「ばらぴゅるい」を拝読することも必要であると思う。










2017
09.18

9月に思うこと・電気羊の詠む歌

Category: 思フコト
近頃、こんな本を読んだ。



「日本を代表するSF作家たちが人工知能を題材にショートショートを競作し、
それを「対話システム」「神経科学」「自動運転」「人工知能と法律」
「環境に在る知能」「人工知能と哲学」「ゲームAI」「人工知能と創作」の
8つのテーマ別に編集、
テーマごとに第一線の研究者たちが解説を執筆した画期的コラボ企画。」

というふれこみ。この小説自体はAIが執筆したものではないのだけれど、
近未来がリアリティをもって迫ってくる。
自動車の自動運転も実現に近づいている今、文学作品とAIとの共存というのも、
この本に依らずとも、いよいよ現実味を帯びてきたのではないか。

こんなサイトもある。「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」
https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/index.html
昨年には星新一賞にAIが書いた文学作品が一時通過したニュースがあった。

これまで短歌の世界では自動短歌生成装置「星野しずる」が著名だった。
星野を形成する多くの語彙は、作成者の語彙環境に多く依存してきたと思う。
今、ここからさらに一歩進んで、ひとりの人間となって主体を構築し、
短歌を綴っていく、歌集単位のAI作家が現れたとしたらどうだろう。

氏名を伏せて審査される新人賞は、
もはや虚構か真実かを案ずるレベルではなく、
(なぜなら、作者自身が虚構なのだから)
審査軸を根本から変革することを余儀なくされるだろう。
さらには著作権の問題も新しく付加されてくるだろう。

10年先、20年先まで見つめて、
私たちは短歌にどう関わっていくべきか、改めて考えさせられる。







2017
08.21

8月に思うこと・勝ちにゆくということ

Category: 思フコト
いろいろな場、とくに競い合う場で選をする立場をいただくようになってから、
いつも思うことがある。

参加者の方たちからはからずも声を漏れ聞く機会もあるのだが、
そのなかで「勝ちにいく」という言葉がある。

選ぶ・選ばれる場にあれば当然なのだが、
どうしてもそこに選ばれたい、戦いなら勝ちたいという欲が出てくる。
そうすると、それが意識・無意識のうちに歌に出てしまう。

「出てしまう」とはどこからそんなことを言うのか、と訝しむ向きもあろう。
はっきりでている歌を示せ、エビデンスを示せという方もあろう。
もちろん言葉として発せられるときもあるし、
歌の場合は具体的にどう、ということではないが、
我欲のようなものが存在するのが分かる、ということだ。

人は誰しもよいことがあればうれしい。
歌会での高得点、入賞、勝利、それはだれでもがうれしい。
競い合うことで高められるものもあるだろう。
だが歌を作る上でそのことが主たる目的になったとしたら、
あまりにも悲しくないだろうか。
やはり一度は「勝ちに行く」歌を作ったとしても、
そこから抜け出してゆかなければ、歌の道は不幸なものでしかない。

こんなことを考えるとき、
私はいつも山本周五郎の「鼓くらべ」という掌編小説を思い出す。

鼓の名手とうたわれた男がある日、競い合いの果て、
相手の鼓の皮を割るほどの気迫をみせて優勝する。
しかし、栄誉を手にしたはずのその男は、
その後自らの腕を折って、行方をくらます。
後年の物語が前後にあるのだが、
なぜこの男が鼓を捨て、自らの腕を折ったのか。

(このサイトでは全編が読める。)
https://www.douban.com/group/topic/15118691/

選という行為に、この話を思い出す。
願わくば、さらに「勝ちにいく」価値から進まれて、
自らの文体を掴んでほしいし、自分もまたその途上であることを記したい。

2017
07.18

7月に思うこと・場の要素

Category: 思フコト
ここ何回か、自分の所属以外の歌会、勉強会に参加する機会があった。
といっても、私の短歌の周囲は、私よりずっと高齢の人たちに限られ、
若年層と触れ合うことのほうが少ない。

ある歌会では、10人前後の人たちが
事前に提出した詠草をもちよって、
添削あり、よい歌の選あり、実に楽しく、いきいきと参加していた。
この会には指導者的立場の人があり、
参加者の様子や運営全般にもさりげなく目を配っている。
そんな心遣いからか、非常に雰囲気がよい。
理想的な形式だと感じた。


歌会はさまざまで、参加者が持ち込むささまざまな要素が歌会という場を方向づけていく。
がっちりやりたい人、上から目線の人、友達作りも同時にしたい人、
読みを聞きたい人、発言は苦手、などなど、
人の数だけ歌会のかたちがあり、かたちはかたちを作っていく。

私が見たのは奇跡的な均衡のとれた歌会であつたのかもしれない。
それは世をこなれた年齢の人々ゆえ、ということもあったかもしれない。
私はこの年になってはじめて、理想的な歌会を見た気がしたが、
これまでも自分に合う歌会に出会う、ということは案外に難しく、
とてもよい雰囲気の歌会に出会ったとしても
そのうち子育てや介護などのライフイベントが重なって、出かけること自体できなくなった。

歌会に行くことができること、それはなんとすばらしいことだろう。
自分の求める歌会に出会えるまで
ドクターショッピングならぬ「歌会ショッピング」をしてみたらよいのかもしれない。




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