2017
09.18

9月に思うこと・電気羊の詠む歌

Category: 思フコト
近頃、こんな本を読んだ。



「日本を代表するSF作家たちが人工知能を題材にショートショートを競作し、
それを「対話システム」「神経科学」「自動運転」「人工知能と法律」
「環境に在る知能」「人工知能と哲学」「ゲームAI」「人工知能と創作」の
8つのテーマ別に編集、
テーマごとに第一線の研究者たちが解説を執筆した画期的コラボ企画。」

というふれこみ。この小説自体はAIが執筆したものではないのだけれど、
近未来がリアリティをもって迫ってくる。
自動車の自動運転も実現に近づいている今、文学作品とAIとの共存というのも、
この本に依らずとも、いよいよ現実味を帯びてきたのではないか。

こんなサイトもある。「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」
https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/index.html
昨年には星新一賞にAIが書いた文学作品が一時通過したニュースがあった。

これまで短歌の世界では自動短歌生成装置「星野しずる」が著名だった。
星野を形成する多くの語彙は、作成者の語彙環境に多く依存してきたと思う。
今、ここからさらに一歩進んで、ひとりの人間となって主体を構築し、
短歌を綴っていく、歌集単位のAI作家が現れたとしたらどうだろう。

氏名を伏せて審査される新人賞は、
もはや虚構か真実かを案ずるレベルではなく、
(なぜなら、作者自身が虚構なのだから)
審査軸を根本から変革することを余儀なくされるだろう。
さらには著作権の問題も新しく付加されてくるだろう。

10年先、20年先まで見つめて、
私たちは短歌にどう関わっていくべきか、改めて考えさせられる。







2017
08.21

8月に思うこと・勝ちにゆくということ

Category: 思フコト
いろいろな場、とくに競い合う場で選をする立場をいただくようになってから、
いつも思うことがある。

参加者の方たちからはからずも声を漏れ聞く機会もあるのだが、
そのなかで「勝ちにいく」という言葉がある。

選ぶ・選ばれる場にあれば当然なのだが、
どうしてもそこに選ばれたい、戦いなら勝ちたいという欲が出てくる。
そうすると、それが意識・無意識のうちに歌に出てしまう。

「出てしまう」とはどこからそんなことを言うのか、と訝しむ向きもあろう。
はっきりでている歌を示せ、エビデンスを示せという方もあろう。
もちろん言葉として発せられるときもあるし、
歌の場合は具体的にどう、ということではないが、
我欲のようなものが存在するのが分かる、ということだ。

人は誰しもよいことがあればうれしい。
歌会での高得点、入賞、勝利、それはだれでもがうれしい。
競い合うことで高められるものもあるだろう。
だが歌を作る上でそのことが主たる目的になったとしたら、
あまりにも悲しくないだろうか。
やはり一度は「勝ちに行く」歌を作ったとしても、
そこから抜け出してゆかなければ、歌の道は不幸なものでしかない。

こんなことを考えるとき、
私はいつも山本周五郎の「鼓くらべ」という掌編小説を思い出す。

鼓の名手とうたわれた男がある日、競い合いの果て、
相手の鼓の皮を割るほどの気迫をみせて優勝する。
しかし、栄誉を手にしたはずのその男は、
その後自らの腕を折って、行方をくらます。
後年の物語が前後にあるのだが、
なぜこの男が鼓を捨て、自らの腕を折ったのか。

(このサイトでは全編が読める。)
https://www.douban.com/group/topic/15118691/

選という行為に、この話を思い出す。
願わくば、さらに「勝ちにいく」価値から進まれて、
自らの文体を掴んでほしいし、自分もまたその途上であることを記したい。

2017
07.18

7月に思うこと・場の要素

Category: 思フコト
ここ何回か、自分の所属以外の歌会、勉強会に参加する機会があった。
といっても、私の短歌の周囲は、私よりずっと高齢の人たちに限られ、
若年層と触れ合うことのほうが少ない。

ある歌会では、10人前後の人たちが
事前に提出した詠草をもちよって、
添削あり、よい歌の選あり、実に楽しく、いきいきと参加していた。
この会には指導者的立場の人があり、
参加者の様子や運営全般にもさりげなく目を配っている。
そんな心遣いからか、非常に雰囲気がよい。
理想的な形式だと感じた。


歌会はさまざまで、参加者が持ち込むささまざまな要素が歌会という場を方向づけていく。
がっちりやりたい人、上から目線の人、友達作りも同時にしたい人、
読みを聞きたい人、発言は苦手、などなど、
人の数だけ歌会のかたちがあり、かたちはかたちを作っていく。

私が見たのは奇跡的な均衡のとれた歌会であつたのかもしれない。
それは世をこなれた年齢の人々ゆえ、ということもあったかもしれない。
私はこの年になってはじめて、理想的な歌会を見た気がしたが、
これまでも自分に合う歌会に出会う、ということは案外に難しく、
とてもよい雰囲気の歌会に出会ったとしても
そのうち子育てや介護などのライフイベントが重なって、出かけること自体できなくなった。

歌会に行くことができること、それはなんとすばらしいことだろう。
自分の求める歌会に出会えるまで
ドクターショッピングならぬ「歌会ショッピング」をしてみたらよいのかもしれない。




2017
06.18

6月に思うこと・言葉の野を豊かに

Category: 思フコト
「組織的犯罪処罰法改正案」が成立した。
今後形成されていく、世の中の空気や人の動き、
そして表現についても懸念は尽きないが、
ひるむことなく表現を続けていきたい。

今回に限らず、毎回、何らかの法案成立前後に発せられる言葉に、非常に違和感がある。

「安倍は死ね」からはじまり、
「徴兵制だ」「戦争法だ」「総監視社会がはじまる」
「日本は終わった」といって、
法案そのものの内容が1だとしたら、
尾ひれをつけて、または大げさに内容を誇張して
3か4まで過剰に煽っている。そんな人のなんと多いことか。
本当の内容はどこまでなのか、結局よくわからなくなってしまって、
かえって筆者は白けた。

思い返せば、こんなことはもうずっと続いているのだな、と感じる。
筆者は原発事故被災地に住んでいるが、
その国道沿いを居住者が心を尽くして清掃しようものなら「人殺し」といわれ、
夏、地元の人たちが尽力して、やっと海開きにこぎつけた海水浴場を
「殺人海水浴場だ」といってくる。
汚染が恐ろしいからと発せられる言葉なのは
十分理解できるのだけれども、ひどい言葉だと思う。
反論するのもばかばかしく、黙っていれば、
「もっと怒れ、なぜ怒らないのか」と強いられる。
怒ってすべて元通りになるなら、怒るだろう。
しかしそうではないのだから、すべては空しい。
私たちが怒っていないことにしてしまっているその人たちに、本質を見る目はない。
すでに私たちの「内心の自由」は、強いてくる人たちの「正義」によって奪われている。
そんなことがもう何年も続いている。

私たちは短歌をやっている。
言葉を扱っているのである。言葉はていねいに選び、扱いたい。
事実に尾ひれをつけて内容を誇張し、憎悪ばかり増幅して
伝えていることにあまりに無自覚な人がいる。

彼らはそれが「正義」だと思っているのがなおさら悲しい。
筆者からしてみれば、すでに「抗議」ではなく「罵倒」でしかない。
そんな人たちとは、これまでも、そしてこれからも、決して共闘はしない。

事実は事実そのまま、それ以上でも、それ以下でもない。
反対するとしても、事実を吟味して粛々と行いたい。
せめて自らの言葉の野は豊かに保ちたいものだと思う。





2017
05.17

5月に思うこと・「わかる」がわかる

Category: 思フコト
『公募ガイド』五月号での特集は
「つぶやくように詠おう・ツイートする短歌」。




巷の公募ファンには有名な雑誌だが、短歌の特集を組むのは珍しい。

巻頭の見出しには「SNSを中心に若いひとたちの間で短歌がブームです」と大きく置く。
「短歌のカジュアル化」を紹介し、
鳥居・木下龍也両氏へのインタビュー、
「ケータイと親和度大」「大学生に短歌ブーム」「ニコニコと月刊『短歌』がコラボ」
「短歌作りキット」「作歌の方法 足し算法と引き算法」など
活況の様子や作歌方法まで、幅広いトピックが並ぶ。

短歌の入り口に立った人も、
迷いなく短歌を親しんでいけるように間口が大きい。 
すなわち、この特集は短歌の作り方がやさしく「わかる」のだ。
わかりやすい作歌方法、わかりやすい歌の発表のしかたが「わかる」特集なのである。

少し前の「わからない歌」論議から、わかること、わかりやすいことの
価値付けがすすんでいるように思える。
『歌壇』でも「わからない歌への対処法」という特集が組まれ、
「わからない」ということに「対処」しなければならない空気が流れている。

しかし、わかる、ことは絶対に必要なのか。
すべてわかったら、逆に「読み」はフラットになるのではないか。
「読み」に幅が出る歌、きちっとある事柄を規定する歌、
どちらも存在してこそ、読み手は楽しみ、歌の世界は深まっていくのではないか。
「わかる」ことがわかる、わかりやすいことが正義、
そんな空気を一表現者として疑う。


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