2017
05.17

5月に思うこと・「わかる」がわかる

Category: 思フコト
『公募ガイド』五月号での特集は
「つぶやくように詠おう・ツイートする短歌」。




巷の公募ファンには有名な雑誌だが、短歌の特集を組むのは珍しい。

巻頭の見出しには「SNSを中心に若いひとたちの間で短歌がブームです」と大きく置く。
「短歌のカジュアル化」を紹介し、
鳥居・木下龍也両氏へのインタビュー、
「ケータイと親和度大」「大学生に短歌ブーム」「ニコニコと月刊『短歌』がコラボ」
「短歌作りキット」「作歌の方法 足し算法と引き算法」など
活況の様子や作歌方法まで、幅広いトピックが並ぶ。

短歌の入り口に立った人も、
迷いなく短歌を親しんでいけるように間口が大きい。 
すなわち、この特集は短歌の作り方がやさしく「わかる」のだ。
わかりやすい作歌方法、わかりやすい歌の発表のしかたが「わかる」特集なのである。

少し前の「わからない歌」論議から、わかること、わかりやすいことの
価値付けがすすんでいるように思える。
『歌壇』でも「わからない歌への対処法」という特集が組まれ、
「わからない」ということに「対処」しなければならない空気が流れている。

しかし、わかる、ことは絶対に必要なのか。
すべてわかったら、逆に「読み」はフラットになるのではないか。
「読み」に幅が出る歌、きちっとある事柄を規定する歌、
どちらも存在してこそ、読み手は楽しみ、歌の世界は深まっていくのではないか。
「わかる」ことがわかる、わかりやすいことが正義、
そんな空気を一表現者として疑う。


2017
04.18

4月に思うこと・世界には男と女だけか

Category: 思フコト
瀬戸夏子氏の角川『短歌』の時評
「死ね、オフィーリア、死ね」と題された論考が4月号で完結した。

とても共感したり、年嵩の歌人として
彼女にここまで書かせてしまうことの申し訳なさも感じたが、
性差別への指摘のほかに、
セクシュアル・マイノリティについての考察が
ほとんど見られなかったことが気になった。  

ジェンダーへのセンシティブな問いを辿っていくなかで、
自分には、佐竹游氏の歌集『草笛』(二〇一四年・現代短歌社)が想起される。

 嫌悪感あらはにからだ捩ぢりたり受胎告知をなされてマリア
 

 同性愛揶揄して笑ふ席に居てわれはひとりを黙しつつをり
 

 レスビアンと名告れば職を失ふぞと或る物書きが忠告しくれき


この歌集では、レズビアンと呼称されるセクシュアル・マイノリティと、
その葛藤や孤独、そして社会的差別を自らの歌の上に問うている。
著者の佐竹氏は歌集のあとがきにおいて、
自身がこれまで関わってきたフェミニズム研究への取り組みを述べ、
さらに自らの性的指向について述べたこの歌集が、
「レズビアンであることの生き難さがテーマのひとつ」と記している。

本歌集について特集された『八雁』(2015年7月号)では、
黒瀬珂瀾・島田幸典・金井淑子(立正大学文学部哲学科元教授・女性学研究者)の
三氏がそれぞれ評を寄せている。

「これらの歌は、広大な世界での〈私〉の位置の問い直しであり、
現実社会で摩滅させられた〈私〉の生の奪還である。(黒瀬珂瀾氏)

「すなわち、私とは何かという問いに積極的な回答や定義を与えるのではなく、
むしろ存在の言いがたさ、存在と言葉のあいだに生まれる亀裂と乖離、
そこに佐竹の歌は焦点を結ぶのである」(島田幸典氏)


「私も、女性の表現にとっての短歌という形式のもつ意味に着目し、
短歌や詩的表現が、身体性を介した表現の場であり、
女性の経験の「臨床の声の場」としての可能性を見てきた」(金井淑子氏)


今挙げた三氏にそれぞれ通底するのは「個」「私」についてである。
たとえば、瀬戸氏はこの『草笛』をどう読むのだろうか。

瀬戸氏が激しく指摘した歌壇における性差別への問いは、
今後の氏自身へ立ち還っていくことなのだと思う。

歌壇へ何らかの応答や改善を期待するのではなく、
自らの作品や文章によってどのようにこれらの問題に向き合っていくのかにあると思う。
「他」からどんな扱いを受けたか、ではなく、
すべては「個」のありかたに帰結する。

時評もまだ続く。今後を楽しみにしたい。
2017
03.18

3月に思うこと・授受関係という他者

Category: 思フコト
書肆侃々房の「新鋭短歌シリーズ」も第3期に入っており、
このたび、加藤治郎氏監修・鈴木美紀子さんの歌集『風のアンダースタディ』が刊行された。

一読してみて、鈴木さんの歌の特徴として、
授受の関係の濃く浮きあがってくる場合の多いことに気が付く。


きみはまたわたしの角を折り曲げるそこまで読んだ物語として
                              「小さな螺子」

見えなくてもそばにいるよと囁かれプロンプターの言いなりになる
                              「私小説なら」

わたくしをおぼえていたいひとがいてうすむらさきの付箋を選ぶ
                            「打ち明けるゆび」

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
                             「無呼吸症候群」

一首目、きみがわたしにやること、読みかけのページのように「折り曲げる」。
「わたし」は受動である。二首目も囁かれて「言いなりになる」主体の描写がある。
三首目、「おぼえていたいひと」の存在があり、主体自身は「おぼえていたい」のかは不明である。
四首目、非常に近しい他者の病気と思われる症状を「おしえない」という主体。

挙げた歌のほかにも、他者との関係のなかから
自らの位置を描写した歌がかなり多い。

それは相聞歌とひとことで括ってしまうのではなくて、
この主体の自らを照射させる手法にあるのだろう。
主体は、相手に働きかけることは少なく、
専ら他者の関係の中にある主体自身を描写していく。

短歌のデフォルトは、主体自身を描くことではじまっていくが、
他者からのの無数の関係性を描写していくことで、主体を際だたせていく、
そんな「授受」の表現から生まれる主体の存在もあるのだと気付かされる。



2017
02.17

2月に思うこと・傾れる人たち

Category: 思フコト
短歌結社「氷原」の主宰であった、石本隆一氏の
評論活動の集大成、『石本隆一評論集成』(現代短歌社)が出た。

さきに刊行された『石本隆一全歌集』とともに、
紡いできた歌業を俯瞰可能なものとするとともに、
歌人研究もさらに進むことが期待される。

本集は八章にわかれ、歌人論、随想、作歌指導など多彩な内容だが、
このなかでひときわ印象的なのが、
石本が担当していた当時の時評を収めたⅣの「短歌時評集」である。
文芸誌・短歌総合誌・新聞など、その執筆の場も様々だが、
石本の姿勢はつねに一貫している。たとえば


報道記事や映像の単なる印象断片を歌にしつらえて、
進歩的文化人たるための免罪符としようとするものもいるだろうし、
せっかく鬱積しているエネルギーを手軽に排泄してしまう歌人が多くなれは、
本質的に、かえって有害であろう。
めいめいの片隅の生活のなかには、
ベトナム問題以上に凝視して訴えるべきものはないのであろうか。
何よりも短歌はいかなる道具にも供されてはなるまい。
「ベトナム詠」(昭和四二・四)
                文藝春秋「短歌」時評


などと、そのときの社会を揺るがすもなんらかの大きな問題が勃興したとき、
歌壇の人々が容易に一方向へ傾れていく性質を持ちあわせていることへの危惧が見えてくる。

石本が角川「短歌」の編集者であったり「氷原」の主宰であったりという、
ある意味で中庸で広汎な視点を要求される
社会的な位置にあったことを差し引いても、
つねに目の前の「俗」が今、何を欲しているか、
そしてその是非について、を
よく見極める透徹した視点を持っていたことが明らかだし、
この視点は大きく社会が動く現在においても等しく通じる点があるように感じる。

2017
01.17

1月に思うこと・無意識な当て嵌め

Category: 思フコト
『現代短歌』二月号の特集は「沖縄を詠む」。
2月5日に沖縄で開かれるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる短歌」と呼応しており、
頁に渡る総力特集である。
沖縄在住、県外を問わず、幅広い世代に執筆者の枠を拡げていて
読み応えがあった。

読み進めていくうちに次のような歌に出会う。

熊本と沖縄を行き来していると告げるあなたは外国の人  久保まり子「仮想沖縄」

手のひらを合わせただけでさようなら私は今日もここで生きてく  當銘さゆり「日常」

たとえば、これらの歌歌から見えてくるものは、本土の人たちへの冷めた視点である。
沖縄が抱える諸問題に取り組もうと意気込んでやってくる人たちを、
そして滞在が終わり去ってゆく人たちを
もうこの人たちはこれまでに何度も見てきているのだろう。
こうした感情が形成されるに到った来沖者の姿勢を、
筆者は今も深く疑わずにはいらない。
それは、原発事故に苦しむ私たちの姿とすっかり重なったからでもある。

少し前の論考になるが、中山昭彦は
「〈アイヌ〉と〈沖縄〉をめぐる文学の現在」のなかで、(岩波講座・文学13に所収)
「日本人」向けのマスメディアが構成するステレオタイプの「沖縄」像が
現地の人自体にも内面化され、そのイメージを逆転させる努力が、
さらに沖縄の古来からの独自性や個性を消去・逸脱させるものでしかないという
二重拘束があることを指摘している。

たとえば、なぜ沖縄の人は「基地の押しつけ」に対して憤るのに、
それを本土の詩型である短歌で詠うのか、既にそこに沖縄植民地支配からの
同化政策の影響があって、その詩型を使って歌えば歌うほど、
沖縄という土地の持つ苦悩は消えていくほかないという矛盾をずっと抱えているのだ。

支配的な日本語という力は、すでにして沖縄の少数の言葉を多く蝕んでおり、
今また、短歌という視点に立って再びあるいは三度沖縄の人に「語らせている」だけでしかなく、
そのことについて多少、琉歌のことはでてくるものの、
今回の特集でも触れられることはなかったに等しい。
ゆえに、この二つの歌歌を単なる本土の人たちの
取り組みへの諦念とみてはいけないのではないか。

きたるシンポジウムで、「日本人」が知らずして嵌め込む、
表現の累々としたファッショについても議論されることを期待したい。
(まあ寸分もそんなことはないでしょうが。。)





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