2014
07.15

7月ニ思フコト・Normcoreと歌

Category: 思フコト
 ノームコアという造語がある。Normcore。Normは標準、coreは「ハードコア」などと言われているところのコアで、「究極の普通」とか「普通すぎる普通」といったニュアンスらしい。

今年二月二十六日付のニューヨーク・マガジンの「The Cut」に書かれた記事では、Normcoreというのは、ある程度おしゃれな若年層がむしろ意識的に中年の中流アメリカ人観光客のような服装を着ること、即ち、その辺のショッピングモールで買ったような服のように、普通すぎる服をあえて着るということだとされている。例えばジーンズにTシャツを来て、ナイキやルコックのスニーカーをあわせるといった、ありきたりの服をむしろ意識的に着たりすることだというのである。 
 
 そもそも、Normcoreという言葉は、元々はマーケットのトレンドを予測する集団が提唱したもので、彼らがいうところのNormcoreは、服装の種類というよりも、服飾に対するある姿勢のことを指す。つまり、人と違うことや新奇性、ブランドの力を追求するのではなく、あえて他人との同一性を選ぶという姿勢をいうのだという。最先端のファッションが必ず併せ持っていた、「どこかしら無理している感じ」を脱して、極めて自然に、普通に、「人と同じこと」をすることで、実は「人とはが違うこと」を創出していくという。

前置きが長くなったが、最近のいくつかの作品にこのNormcoreを感じることがあった。

 あやまたず父となるべし蕪の葉を落としてまろき無を煮込みつつ
 記憶もてたどりつけざる生誕の日よ円規の針穴のごと
 其のひとの荷物はすでに世にありて襁褓の箱を積む部屋のすみ   
                        光森裕樹「無を煮込む」現代短歌新聞7月号


光森裕樹は直近の『ガニメデ』60号と『現代短歌新聞』7月号上で、自らの子どもの誕生を控えた身めぐりについて詠んだ歌を発表している。

 子どもの誕生を待つ父性の表出や不安定な感じが著しく計算された構成で読ませる内容だが、注目したのはその文体だった。光森は第一歌集『すずを産むひばり』にしろ、第二歌集『うづまき管だより』にしろ、現実生活をそのまま詠うタイプの歌人ではなかったはずだった。
 
 むしろ短歌でうるさくいわれる「私性」の問題を排除し(作中主体を駆使し)、作者の個人情報はぎりぎりまで削りながら、生のないがしろな感じや疲労感を醸すタイプの歌人だった。読者はその世界観をこよなく愛し、世界を味わっていたように思う。

 だが、直近の二作は、現実の作者の生活に肉薄したドキュメンタリー的な文体に取ってかわっている。『ガニメデ』での「其のひとを」と、その後日譚としての『現代短歌新聞』の「無を煮込む」は、子の誕生の間近さという現実に深く根ざしたものだったのである。

 このことは目の前に強烈な現実的な題材があったとき、そこに作中主体を動かして対応できるのか、という創作上の根本的な問いが横たわっていると思う。さらに、歌として身めぐりを詠うときの作り手読み手ともの「私性」への欲求は想像以上にすさまじくて、過酷な現実と対峙した場合に、方法的にまず作者自身として描いていくことが表現上看過できないのではないかということを考えた。

 さて、もう一つ挙げたいのは、楠誓英の第一歌集『青昏抄』である。
『青昏抄』は現代短歌社が行った「第一回現代短歌賞」の副賞としての刊行である。賞品としての新しい刊行形態だが、歌集自体は所属する結社の主宰の跋文、著名歌人の帯文と栞文あり、ごく標準的なスペックで仕上がっている。

 講堂の床に金色の陽の差してパンを焼くやうな匂ひしてゐる
 凍えたる両手を頬にあつるとき水底おもふ悲しみのあり
 少年の家族の話聞く間にも釣糸は白く凍りはじめる
                                     楠誓英『青昏抄』現代短歌社


楠の歌も、題材は職場や題材など身辺に取材したものが多い。歌集については違う項ですでに紹介したが、若い歌人の新奇性や解読の必要性が目に付くことの多い昨今では、地味で手堅い印象を受ける。結社での鍛錬もあるのだろうけれど、対象をくきやかに歌に反映させていくことが、この作者の優れた力のひとつになっているようだ。

 この人にとって、作中主体とはなんだろう。それは意味をなさないか、あるいは今は関心のない表現手法だろう。この人の文体にあっては、「われ」はそのまま「われ」=自分であって、読者はこの安定に信頼をおいて読み進めることができるのだ。

 「私性」は楠の文体に限りなく現実感を付与し、全体において歌は地に足が着き、読者に読中・読後を通して安定をもたらす。従って、3首目のように、もし幻視的な要素が挿入していたとしても、それが作者の心象風景であることは賦に落ちるし、なぜ「暗い」のかも自然と合点がいくのである。即ち、楠の歌は、意識・無意識にかかわらず、従来の歌の良さを最大限生かしたつくりであり、原初に忠実な歌群だといっていいのだと思う。

Normcoreに還ってみよう。そうすると、これら二人の文体は、Normcoreという言葉がほどよくあてはまると思う。ごく普通の、歌らしい、当たり前の歌。それはつまらない歌、ということでは決してなく、「普通すぎる普通」の文体が、かえつてその人の主題を際だたせるものになっているということだ。

技巧に長けた歌、反対に切実さばかりが目立つ歌、謎解きや解読をしなければならない歌、虚構構成の歌、作中主体が闊歩する歌、これらのアプローチに読者はそろそろ疲れてしまった感じがある。 

 震災以降、言葉に懐疑がうまれ、いっとき切実さが要求される感じがあったけれど、今、さらにその「無理をしている」感じからも脱して、そろそろ「普通すぎる普通」へと、歌は舵を切ってきているのではないか。読者は歌の中に現れた作者の生のひとときに共に寄り添って、静かに感慨を覚える、そのようなNormcoreな感じがこの二人の歌人の作品には明らかに存在していたように思う。









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