2014
09.16

9月ニ思フコト・「場」を持つことへ

Category: 思フコト
『短歌研究』9月号時評・澤村斉美さんの「不謹慎の文学」を読んだ。

澤村さんは「たとえばの話」として
集団的自衛権に伴う邦人の死者の発生を仮定し、
そのときに発生する表現の不自由さを懸念する。

過去に物議を醸した「不謹慎」な歌の位置、
さらに発展しての現代の「不謹慎」さえ申せぬ雰囲気について振り返る。 
だが、澤村さんの指摘は、このことでの表現の不自由を言うのではない。

さらにそこから進んで、「不謹慎」でさえいられない全体主義的な文学的態度が
必要とされてしまう時代の到来を予感している。

 このことはおそらく誰もが認識しているのだけれど、言語化されていない。
言語化されていないことにも気づいているけれど、それも言語化しない。
すでに起きていることであるのに、誰も指摘しないのである。
表現者の一人としておそろしいことだと思う。
 
先頃出た、midnight press web9月号/midnight criticでは
江田浩司さんが「短歌と自由詩が失ったもの-批評について」を書いている。
(リンクで全文読めます。)
http://www.midnightpress.co.jp/mpweb/mpweb-11.pdf


ここで江田さん「歌壇」に存在する力学を説きながら、
その関係性ゆえに批評の本質をみれば
すでに批評自体は不在であることをいう。

時代はすでに暗い方向に静かに舵を切っており、
歌人たちは自ずから歌壇の力学のなかにあって、
だんまりが得心とばかりにスルーを決め込む。
このことは今に始まったことではない。

沈黙に関する大きな流れに抗う力を各々の歌人が覚醒していかないかぎり、
なんら変化することなく、場合によっては
とある方向へ誘導されてゆかれかねない。
歌人はネット媒体なり、紙媒体なり、
関係性に関してなんら影響されない、
独自に主張していける「場」を持つべきなのではないかと強く思う。





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