2014
11.15

11月ニ思フコト  稀少性という免罪符

Category: 思フコト
 稀少性、という言葉を思い出した。

 容易に入手できるものは価値が低く、数が少ないものは価値が高いと考える、私たちの日常生活の中での、換金可能な経済的なものをはじめとした、価値の感覚であり、私たちが根っこに身に付けている共通認識。

 珍しい、今しか手に入らない、供給される数が少ないといった要素に私たちは弱くて、入手出来なくなる前に、とか、限定だから、とかいう言葉に充分な検討をすることもなく飛びつくという消費行動が取られてしまう。

 何の話題かといえば、第六十回角川短歌賞の佳作に入った山田いちろう氏の作品とその選評にも同じものを感じたのだった。 山田氏の「FUKUSHIMA-1」は、福島第一原発の作業の様子を描いている。無記名での選考時には、選考委員はこんな評を交わしている。

米川 福島第一原発に労働者として入ったルポルタージュ的な貴重な一連です。

東  大変力作だと思いました。現場からの声ということで貴重な一連だとも思う。

小池 原発の最前線で働いている人が短歌を作って応募してきて、大事にしたい一連ではある。

「貴重」「大事にしたい」といた言葉が並ぶ。
この作品においての観点は、「原発作業を描いた」という稀少性にある。それは表現の様々に力点が置かれる他作品の評価軸とは別な観点である。

どこが稀少か。それは「原発作業員の作った短歌」ということに尽きるのだけれど、地元に住んでいる筆者からすれば、国道六号線での煽り・追い越しなどの無法地帯状態の描写(九月十五日に六号線が開通してからは交通量も増え、辻辻にパトカーが配置されているので、少なくなった)、ゴム手の作業のしにくさ・成人用襁褓着用での作業など、描かれた内容の殆どが「作業のありふれた話」であって、短歌としての必然性を疑ったし、(伝えたいのならば短歌でないほうが伝わることも多い)文体にその人の匂いを感じられなかったのである。
 
 「FUKUSHIMA-1」は、作業の様子を伝えようとすればするほど、事柄を描こうとすればするほど、「山田いちろう」という一個の人間・作者の姿は消え、もやもやとした顔の見えない「作業員A」の姿しか浮かんでこなかった。リアリズムが背骨の作品であったはずなのに、リアルな作中主体も、結像されるべき作者の姿も消えてしまった。

 選考委員は、描かれる内容も、作業員の作った短歌というのも、それぞれが「貴重」だといった。
だが、読み手が違えば、描かれる内容は「貴重」ではない。作業員のつくる短歌は稀少かもしれないが、原発禍に遭って短歌をやる向きは福島県にはゴマンといるのだ。「稀少性」のほか、「FUKUSHIMA-1」に見いだせないのだとすれば、それはかえって悲しい「佳作」であるだろう。

 「稀少性」が先に立ってしまう現象は震災詠以降ずっと続いている。表現の巧拙を抜きにして、稀少であるからという理由で認知される、そうした流れがいまだ別な流れとして存在している。
先に起こった短歌研究新人賞の虚構の問題も、若くして父親の死に遭遇したという「悲劇」を加点として狙っていた部分はまったくないとは言い切れないだろう。
 
このような「震災二十一世紀枠」とか、「挽歌加点」と揶揄されるように、「稀少性」のみの理由で高得点が得られたとして、その作り手は表現者として満足なのだろうか。  逆に読み手はその「稀少性」を珍しそうに消費したあと、さらにその作り手に何を求めるというのだろうか。
 
安易なファスト・レスポンスとトピックを求める作り手読み手が増えている。そう思わざるを得ない。 
そういう向きは次年度は「原発作業」と「肉親の死」を絡めた作品を応募されたらよいのではないだろうか?
稀少性という表現の免罪符によって、佳作になれなかった佳作品が数多あっただろうことを残念に思う。

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