2015
03.17

3月に思うこと・人を恋うことの遠さについて

Category: 思フコト
『歌壇』3月号の特集は恒例のテーマ別アンソロジー・私の一首。
全国に散らばる歌人たちが一首ずつを寄せている。
なかでも今年、目に付いたのが、「社会・時事」に掲載歌数の多さだった。108首。
それに比して、「恋愛」は22首。
じつに「社会・時事」は「恋愛」の5倍ほどの歌数である。

昨年のものとの歌数の比較は誌が手元に見つからず
今回までに確認できなかったが、今年の「社会・時事」の突出は際だつように思えた。


一方、角川『短歌』3月号では、「恋歌の魅力」という座談会の模様が再録されている。
出席者は小島なお・服部真里子・大森静佳・立花開という若手の女性歌人たちだ。
なぜ女性だけ?ということも少し気になったけれど、それはまあ編集意図もあるのだろう。
若い歌人たちがいわゆる「相聞」についてどのような距離を保って見ているのか、
ということが伝わってきて面白い企画だった。

小島  恋の歌というとどうしても悲恋。喜怒哀楽では哀の歌の比重が高くなるのですが、喜・怒・楽の歌、
ユーモアの在る歌がもっとあってもいいと思います。そして、できれば現在進行形の歌を読みたい。

服部  恋愛はなにか特別なものではなくて、人間関係の形のひとつなんだなということですね。(中略)
もっといえば恋愛の歌を男女の二元論にしたくないなと思っているんです。

大森 魂乞いの歌である相聞歌を作るためには、今日の歌にもありましたが、呼びかけや肉声が大事だなと思っています。(中略)あとは五十代、六十代、七十代の恋の歌というのが読みたい。

立花 私は恋の歌は決してラブレターのような形ではないと思うんです。「誰かのために」という気持ちが強すぎると
短歌というものが持っていた本来のかがやきや芸術性が失われてしまう気がするので。


たとえば、これらは相聞への距離がよく分かる総括の部分なのだけれど、
座談会では相聞と社会との繋がりについて考えてみた話者はいなかったようだ。
たとえば、小島は河野裕子の「逆立ちしておまへがおれを眺めてたたつた一度きりのあの夏のこと」を挙げ、
他の参加者も応答しているが、この歌にある「おまへ」「おれ」がなぜ同等の呼称になったかという
時代背景までには踏み込んでいない。

時代の匂いは相聞に必要か。あるいは相聞には時代が忍び込むか。
わたしは上の河野の歌のように、あると思うのだ。それは言葉上のレベルではなく、思考のレベルでだ。
現代ではもう「君の名は」のような生き別れはもう起こらないし、
恋愛の土壌はよりフラットになっている。だが、そのフラット化された世界で、
急激に二人を含む社会の状況が傾いたとき、相聞に顕れる思考はより純化されていくし、
また相聞自体が人々から弾圧されるだろう。
たとえば、ありがちな傾向として「この非常時に」とか「不謹慎」という言葉によって、
相聞はたやすく沈潜するのである。
そう、歌壇4月号で「恋愛」のテーマの歌が少なかったのは、
現在の社会の状況を反映してのことだと改めて確信をする。

精神をすべて躑躅にうずめたら冷たい頬のままでおいでよ 服部真里子


座談会の参加者の一人・服部真里子の歌が期せずして「恋愛」のテーマにある。
この歌の制作時期はわからないが、
(要項は最近作とし、既発表・未発表を問わないという要請だったかと思う)
服部の歌に現代においてのある一人の精神性の諦念のようなものが見えると感じた。
時代は動いてゆく。