2015
04.19

4月に思うこと・短歌の桃源郷はあるか

Category: 思フコト
現代俳句協会青年部が『インサイトゥー』4号を発刊した。特集は「読まれたかった俳句」で、
昨年11月に行われた同名のシンポジウムの模様の再録のほか、評論も充実した誌である。
「詠まれたかった俳句」とは何か。各人が真摯な論を寄稿しているのだけれど、
なかで中村安伸氏の論に注目した。

中村氏は、シンポジウムの模様をあげながら、従来からの「伝統」対「前衛」の二項対立を
脱するために、新たな二項対立が必要なのでは、と提案する。
つまりは「読まれたい」俳句と「いい」俳句は異なるものであって、
恣意的に二項立てしてみてはどうかと提案するのである。


「読まれたい」の主体は作品であるが、それは作者の願望を受け継いだものであろう。
 「いい俳句」志向は、作者の「作る」という行為の特殊性をなるべく排除し、作品そのものを見ようとするものであるが、
「読まれたい俳句」志向は、作者が俳句をつくる行為そのものに寄り添うものである。
 俳句作品のみと向き合い、その価値を見極めていくことは「俳句の内側」かにおいて有効かつ重要な方法ではあるが、
「俳句の外側」からつねに投げかけられる「なぜ俳句をつくるのか」という問いに対して十分な回答を
用意することができないのではないだろうか。この問いは(詩や短歌ではなく)俳句を選んだ理由のみならず
さらに根源的な、創作とはなにかという問いを含んでいる。
 俳句を作るという行為について考えることが必要となったとき、「読まれたい」志向の出番となる。
つまり「いい俳句」と「読まれたい俳句」は対立的であるとともに相互補完的なものでもある。
 このふたつの志向を相互補完的に運用するにあたって、それぞれの志向を混同しないことが重要である。
(後略)



詳しくは本誌をごらんになっていただきたいが、
この示唆は、短歌界隈でトピックとしてこのところ持ち上がっている
「わかる/わからない」の世代間の問題にも当てはまるように思う。

すなわち、実作者と読者がほぼ重なって存在する短歌界隈も、
おそらく「いい短歌」志向はどの実作者にもあるだろう。
だが、「読まれたい」主体の作品は、作者の願望を多く引き継いでいながら、
広く公共性を獲得できない、そんな状態なのではないか。そうして、そんな不満やかなしさは
分断という亀裂につながっていく。

無理解について憤る多くの言説に接するとき、
「なぜ短歌を作るのか」「なぜ短歌なのか」と原初の問いに立ち返って考えてみれば、
いつのまにか多く他者からの承認欲求にすり変わってしまっていることに気付く。
もちろんそれは自他が居てこその自然な欲求ではあるのだけれど、
多くが「いいね」をつける歌=「いい短歌」ではないのではないかということを
もう一度創作者としての原点に立ち返って考えたいと思うのだ。






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