2015
09.16

9月に思うこと・文語が絶滅危惧種な理由

Category: 思フコト
ふたたび短歌表現の文語と口語について話題提起が続いている。


発端は第四十九回迢空賞の選考経過における岡野弘彦氏のコメントだが、
これを受けて、直近の『現代短歌』十月号では時評で黒瀬からん氏が現状についての考察を寄せている。
また、角川『短歌』9月号では、岡野氏自身が、現在の歌の状況についての憂慮にも似た考察を、
巻頭エッセイ「歌の理由」において再び述べているのである。

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折口の死後六十余年を経た今になって、短歌の現実を考えると、あれほど鋭敏に短歌の宿命、短歌の未来を考えた折口すら思いおよばなかった厳しい現実が、今日の短歌の上に生じていることを認めてないではいられない。
敗戦後から加速度を加えてきた日本人の言葉の大きな変化である。今の短歌雑誌や新聞投稿歌の文体・用語・しらべの変化の著しさは、明治初期の新用語による変化や、その後の自由律短歌の流行期の変化の比ではない。…(後略)


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岡野は繰り返し「文体、用語、しらべの変化の著しさ」について、
即ち、うたの言葉としらべの力についての大きな変容について訴える。
ここまでの危機感を持つことの意味を改めて考えてみれば、
短歌が創出される表現の「場」の問いへ帰着するように思われる。


なぜ、その文体なのか、なぜその用語を使うのか、なぜ「しらべ」がそうなるのか。
それらは作家自身の言語状況が起因するのであって、
その作家がどのような思考にあって歌を生み出すのかという当然が存在する。
文語・口語という二元的な概念に別して文語の絶滅危惧を訴えるのではなく、
なぜ文語が絶滅危惧種となってしまったかを考える必要があるだろう。


今回の賞選考に限らず、あらゆる短歌の賞選考の場において、
あるいは歌会や雑誌といった小さな選択の場においてまで、
文語を駆逐し、あるいは忌避し、回避し、
口語をもてはやしてきた、私たち作家自身の責任でもあるように思う。
文語はずっと暗黙の内に淘汰の対象とされてきた。

歌への「新しさ」を求めるあまりに、
また文語の選択についてのみ、なぜ使うのか使用の理由を求めること自体、
(そうであるならば、同じように、なぜ口語を使うのかについても理由が必要なはずだ)
文語使用はいつのまにか、自分とは「あわない」表現の文体として、
次第に距離をもってきたのではないか。


この現状を現状たらしめてゆくもの、
それは憂慮する側の人間が、そうであることをもっと自覚しなくてはならなかったのではないか。
そうして、いったん絶滅危惧された類がそれを挽回することはもはや容易ではないのである。
そうしてきてしまったのは一体誰なのか、
今、口語を使う人たちにではなく、「文語を使わなくなってしまった」人たちに問いたい。





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