2015
11.17

11月に思うこと・フラッシュモブな人たち

Category: 思フコト
フランスでISによるテロが起きてから、
facebookはユーザーのアイコンに三色旗を重ねるサービスをまもなくして打ち出した。

このサービスについて、
ユーザーの間では自身のアイコンを三色旗に変えるかどうか、
また侃々諤々の騒動が起きた。
その前日もベイルートでテロが起き、犠牲者が多数出ていたからだ。

哀悼の意を表したい人、テロの犠牲はフランスだけではないとする人、
それぞれの言い分でそれぞれが言い合った。
議論もあったが、幼稚な非難や中傷も同じだけあった。
おそらく、このことについての顛末と主張もネツト上に多発していることだろう。

筆者はこの件を面白く見ていたが、ある特徴に気がついた。
当初、このサービスの「違和感」について
著名なネットユーザーがまっさきに拡散、
数時間後には一般ユーザーがほぼ同じ内容を自分の言葉にして発信した。

さらに数時間後にはより多くのユーザーが、
このフェイスブックのサービスについて様々な意見を言うことを始めた。
こうして、丸1日経った頃には、「アイコンを三色旗に変えるか否か」問題は、
非常に大きなトピックとして流布するようになっていた。

この「問題」が大きくなるにつれて、
当初まっさきにアイコンを三色旗に変えていた人が
あわててまったく別のアイコンに直していた。
その人はそ知らぬ態度を決め込んだのである。

筆者はその人を滑稽にも気の毒にも思った。 
当初のただ純粋な「哀悼の意」は、
「IISによるテロと、テロ対象国となった国についてどう考えているか」
という社会的な問題を孕む
リトマス紙に変わってしまったのだから。

筆者はアイコンがなんだろうと、どうでもいいと思う。
フランスでの出来事に弔意を表して変えたければ変えればいいし、
そのままならそのままでいいと思う。
たかが(←この考えがおかしいのだろうか?)
1㎝強の大きさのアイコンの柄云々やら
SNS上で自分がどうふるまうかなど、そのサービス内のことに過ぎない。

本当に大切なのは自分自身が
これらの件に関してどんな考えを持ったかであり、
そのことはSNSであれこれ「表明」することでもないはずだ。
しかもテロが今度は日本国内で起こりえるという発想は徹底的に持ち合わせていないらしい。
facebookもツイッターも、
提供している元々が終了と言えば終了するサービスでしかない。
我々はほんの少し間、そのサービスに乗っかって遊んでいるのに過ぎないのだ。

しかし、気になってしまう人たちはいる。
そして「触発されて」動き出す。(決して自分自身というものは貫かない)
ある広場で一人が動き出すと、あちこちで同調し出す。

それはフラッシュ・モブに似ている。

フラッシュ・モブは事前の申し合わせは必須なのだけど、
そのことを省いてもこれは今日の世相であるようにも思う。
そして歌壇にあふれる歌もその傾向がある。

誰かが自身がデモに行ったという作品を出せば、
別な歌人もデモに行ったという作品を出す。
あなたもあなたも、あなたも。同じ傾向の歌があふれる。
そして安心するのだ。

そこに描かれる「私」とは何か。
大衆としての「私」である。
大きな流れに今のいまタイムリーに与している自負と優越が漲る「私」である。

それらの歌は体験をそのまま描くのが主眼だから、
修辞についていえばまったく行き届いていないシロモノがあふれる。
かつてクウェート侵攻や湾岸戦争を喩して巧みに歌いこなした、あの視点は失われている。

他国のことには饒舌、
だが自国のことには当たらず障らずの態度を決め込む、
こうした動きを筆者は危惧する。

かつて戦争に傾れたとき、多く傾けていったのは、
たやすく帯同してしまう歌人ではなかったのだろうか。
こんなとき、いつでも自分の歌を持ちたいと改めて思う。



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