2016
03.18

3月に思うこと・キャラと私性

Category: 思フコト

セーラー服の歌人・鳥居の歌集『キリンの子』(KADOKAWA)が話題である。



母の自死に始まる悲惨な境遇と、自身の手で獲得していく言葉という武器によって、
鳥居は歌を綴っていく。

読者に強烈なインパクト読者に与える「私性」の提示は、
さらに、この歌集とは別に生い立ちを詳細に綴ったドキュメンタリー
『セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語 』と
共に読むことによって、鳥居の悲劇性はさらに強化されるだろう。



しかし、この歌集が、そういったいたましい境遇ばかりが
注目されていくのを自分はかなしくも残念にも思う。
それがたとえ作者自身の意図・恣意であったとしても。
歌は境遇を詠ったものではなく、
むしろ、詩情を駆使した歌のほうにあるのではないか。

さやわかの『キャラの思考法』(青土社)には、雑誌ユリイカに発表された論考を中心に
「キャラ」についての考察が読める。内容は読者に読んで頂くとして、
たとえば、ここに収められた論考を、鳥居の歌集に照らしてみれば
鳥居という歌人が、一般的な境遇にある人たち(集団)と、相対的な位置(まれに見るいたましい境遇)にあることを
充分に自覚してこのプロフィールを提出していることがわかってくる。

また、現在では主に若手で詳細なプロフィールの提示を回避して、
作中主体を据えるなどして自らを描かない作風が流行だが、
鳥居の作品は過剰なまでにプロフィールを提示していくという、まったく真逆の方法論ともいえる。

「色物」として敬遠されるのも想定内に置いて、
もっと心のニッチな部分に、鳥居の作品はすべりこむように
組まれているようにも感じる。

これはうがった見方だろうか。
鳥居は、本歌集でほぼこれまでの自らを詠い尽くした。
悲惨な境遇はほぼすべて描き出されておわった。
だからこそ、歌人としての真価は次の歌集からになると思う。

境遇にたよりきった歌は、歌として成立するときに、歌としてどうなのか。
あらためて考えさせられる事例だったように思う。