2016
06.17

6月に思うこと・世代間コミュニケーション

Category: 思フコト
角川『短歌』6月号の阿波野巧也さんの時評
「短歌総合誌について私が不満におもってること」をおもしろく読んだ。

ここでの主訴は、総合誌のステレオタイプな価値観についての疑義と、
若い世代の「消費」について、満足な対話もなく
自分たちの作品価値が承認されないことへの不満に集約されるだろう。

ついこの間まで、「若い世代」と定義づけられ、
そのひとりにも今も入っていることもある世代の筆者として、
さらに若い歌人のひとりが、ここまでの不満を「おもってる」のは、とても痛ましいと共感したし、
けれども少し違和感も感じたのだった。

阿波野さんは、「年嵩の歌人が短歌を分かっていて、若者たちは全然分かっていない」という
切り捨てについて、話を切らずに煮詰めたいし、読む力を煮詰め、養いたいと訴える。
(その主張は前号の時評「話し合うこと」でも繰り返し綴られていることだ。)

最後にこういう。

 それなら何を「分かっている」のか教えてほしい。p187


筆者が違和感を感じたのはここである。なぜ、相手への不信をここまで述べてきた上で、
真逆に「教えてほしい」と願うのだろうか。
少なくとも、筆者は「教えてほしい」なんぞ、そんな相手には微塵も感じなかったとを思い出した。
ただ、「分からない、分かっていない」と言われてあまりにも悔しいから、
見る、盗む、考える、方法を編んでゆく、そして納得させる、看破する、
そうした負けん気が歌人としての自分をこれまで育ててきたように思う。
しかもそれだけでは不幸な関係性でしかないから、対話も働きかけ、
自らの抽斗もつねに豊かにしようとしてきたと思う。

もし「教えてほしい」なら、個人的に電話して、
面会の約束をとりつけるなりして、自分から対話の枠組みを作ればいい。
対話がないと嘆くなら、イベントを興して自分から「場」を創ればいいのである。
総合誌が対談の企画を組んでやったら、などと言う人も周りにいたが、
そんな他力本願では、それこそ自分の歌人としての読む力も読む常識もそれ以上養えないのではないだろうか。

そうして、やがて忌避してきた「若い世代」という枠組みから解放されたとき、
いままで己がこてんぱんに貶されつつ、無視されつつ
いかに大切に愛されていたかも同時に分かるはずだ。
しかしそのときはもう若くはないのだけれど。

世代コミュニケーションのなさは、これまでも常に論じられてきたアポリアではあると思う。
しかし、そこでどんな風に食らいつくのか・繋いでいくのかは、時代性とともに、
その時代時代の「若手」自身の状態如何であるようにも思う。
いま年嵩の世代の歌人も、昔は「若手」だったのだ。
現在の「若手」はどうか。そんなことも楽しみにして見つめていたい。




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