2016
12.17

12月に思うこと・国語と日本語

Category: 思フコト
先月出た、藤井貞和氏の『日本文法体系』(ちくま新書)がおもしろい。
2010年刊行の『日本語と時間(時の文法)を辿る』がとりわけ時制に対して
焦点をあてて説いていたのに対して、
こちらは「日本文法」全般をほぼ網羅してある。










藤井の基本とするのはもちろん学校でわれわれが習ってきた文法だから、
誰もがもつ知識を元にして、大いに藤井の思考のあとを辿れる。
助詞・助動詞(本文では助辞・助動辞という表記)はもちろん、人称の問題なども触れてある。

しかし、筆者は少しこの書籍を読んで、戸惑うこともまた多かった。
たとえば、国語文法はもちろん、国語としての文法なのだが、
日本語としての文法からのアプローチはなかったのだろうか、という戸惑いである。

日本語としての、というのは、
日本語を母語としない人々に日本語のからくりを
伝える場合に、日本語という体系を説明し得る方法論であって、
現在も、多くの場面で、「日本語」は教えられているはずである。

しかし、短歌の世界にいる人たちもなぜか「日本語」には手をつけていない。
学校文法下での品詞解析で終わってしまう。
それは意外でもあるし、もつたいないことでもある。
日本「語」文法からのアプローチはどうか。
きっといまの口語短歌の文末の問題、「た」「~だろう」「~でしょう」や
やりもらい(自他の関係性構築)、
一首の中の時間軸の問題がうまく説明できるのではないか。

藤井のこの著は、全能的、一見革新的ではあるけれど、
従来の域を出ない。それが自分には惜しまれるし、
日本語を教授している人は多くいると思われるのに、
それを歌にあてはめて説く人は現れていない。

それはそれで、また異なる「場」の問題が存在するのだと思われるけれども。
この話はまた違うところで書きたいと考えている。