2013
06.05

「てのひら」と「手のひら」-てのひらの顕すものについて

Category: 壜のなかみ
これまでに読んできた女性歌人の歌集のタイトルは
くしくも「手のひらの花火」「てのひらを燃やす」というように
どちらも(てのひら)がモチーフとなっています。

しかも

てのひら+火 のイメージで。

ちょっと考えてみたいと思います。

山崎さんの「手のひらの花火」は
手のひらでちろちろと燃える小さな花火を思わせる。
(該当する歌と思われるものもありますが)
実際は手のひらには載せられない、そして花火はやがて燃え尽きる。
作者は知っていて、それを手のひらにのせ、ひきよせて、じっと見ている。
終わることを知っていて、なにもせず、じっと、見ているのです。
(この「見透かす感じ」が山崎さんの歌に不安な死と近い静かさをもたらしていると思う)
爆ぜることだったり、赤さだったり、対象物を詩的に引き寄せることをしている。
それがタイトルとして現れている。


大森さんは自身の「てのひらを燃やす」という。
あとがきにも帯にも
その動機が載っていて、「詠うことは自らの手を燃やすような静けさの行為である」
と解説があるのですね。
自らの身体ということ、身体を灯すという行為、自らの灯火としての短歌。
だが燃やすことは自傷と結果においての消失があって、
歌をやっていくのだという言挙げのようなものが感じられるけれど、
自分を傷つけながら、という激しい感情が含まれているような気がします。


そして、表記として「手のひら」と漢字交じりに書くと、現実のはっきりとした具体、
ひらがなだけの「てのひら」だとやさしげで詩的なものを感じさせる。
ここは両者の詠風と逆説的になっている。
「手のひら」という現実的な具体の上に花火があるということ、
「てのひら」という詩的な喩を燃やしていくということ。


たった一字の漢字表記が読みを左右してゆくと思う。


ではなぜ、モチーフに「手のひら」をつかったのでしょうか。
現実として、手のひらは小さく、自らに近づける存在。自らのために働く存在。
自分の意志を他者に自在に伝える存在。心を顕すひらひらとしたものだといっていい。
ほしいものは手のひらが掴むし、遮るものは手のひらが防ぐ。
手のひらは自分の意志を如実にあらわしている。
いわば自分の思い通りになる唯一の腹心のようなものでもあるのではと思います。

一人はその上で花火を燃やし、もう一人はそれ自体を燃やしながら、
歌を「生む」。
収められている歌はそれぞれの歌にリンクしているようにも感じます。


それぞれのこれからの生き方、詠み方にもつながってくるのではと思います。
彼女たちにとって、生とはまだ踏み入ったばかりの入り口にいるようなもので、
手のひらは一番近しく頼もしい存在です。
逆に言えば、近接の。近いものしかまだ、見ることがありません。



これから生を歩むにつれて、手のひら以外ものも
生の杜でゆたかに見ていくことになるのではないかなあ。

そんな気がしました










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