2013
09.19

本多稜歌集『惑』を読む

短歌人に所属する本多稜さんの第四歌集『惑』を読みました。

作者の仕事柄もあって、海外へ渡航した折の歌が多く収められています。


「海外詠」という言葉があるけれど、「海外詠」として分けてしまうのには
違和感がある。

海外詠というと、日本人である自分(作者)が
海外へ出かけて、見聞するあれこれに日本との相違や違和感を抱き、
またはそうした情趣を楽しみ、日本が更に愛しくなる
帰国してからは今度は日本もおかしな国に見える・・
という流れが多いような印象です。
結局、作者にとっては終始「海外」であって「海内」(造語ですけれど)になりきれない
日本ってどうよ?という歌が多いように思います。

本多さんのはそうではなく、海外、日本、そういう区別なく、
其処に生きる人間の生き方をいっしんに見つめているような歌です。

ですので、とてもそれぞれの土地の人間がエネルギッシュで魅力的である。
そして、自分のお子さんもまた、同じように人間の一人として描かれていて、
エネルギッシュ。いずれも生命力に溢れている。

人間の普遍性とか葛藤とか、そうしたものに主眼が置かれている。


   上野迷子事件
パンダ館の横にわが家の冒険王父を睨んでわつと泣き出す     「鰯雲」

チョコレート一粒のため彼方より駆けつけきたる小さき手ならぶ  「アララト」

まとひつく空間われ脱いで脱いで脱いで鮮しき皮膚を得んとす   「南米を行く」

ガイジンも座れと土地の人リプチェク君をねぎらひたまふ     「陸前高田・気仙沼」

焼きたての香りと笑みとを受け取りぬ朝の挨拶ナン一つ買ふ    「平原へ」



人間を(自分を含む)見つめる目の温かさ、誠実さ。
それはアジアの何処の国でも、日本のどこでも被災地でも、南米でも変わりはない。

なかに日本語・中国語・韓国語の三カ国語が入れ替わり現れる章だてが在るのですが、
これも詩型のなかのテーマは変わらず、ただ、言語のみ入れ変わっている。
言語が変わるとどう伝わるのか、人にはどう捉えられるか、(言っていることは変わりはないが)
人間の生み出した言葉ということ、
言葉が人を分けるのか、人が言葉を分けるのか。

非常に精緻に指摘されている。


今年度必読の歌集ではないでしょうか。


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