2013
10.17

堂園昌彦歌集『やがて秋茄子へと到る』を読む

『やがて秋茄子へと到る』2013.9.23(港の人)

「pool」所属、ガルマン歌会を主宰する、堂園昌彦さんの第一歌集。
この歌集はもう現在大人気で、たちまち重版だとか。
独自の歌歴を歩んでこられた堂園さんの世界観を反映した
歌集といっていいのだと思う。

人気の割に、出版からもうすぐ一ヶ月くらい経つのだけれど、
しっかりした書評が少ないように感じます。
それだけ難解でもあるのだと感じます。
わたしも頑張って読み解いていきたい。

わたしが感じたのは換喩の駆使でした。

そもそも題名の「やがて秋茄子へと到る」は何を意味するのか。

この場合、秋茄子を除いた「やがてAへと到る」は、

やがて→時間経過とともに事態が変化してゆくことを表す接続詞

へと→方向性を示す2つの助詞から成る連語(へ、よりも動きの方向性が強い)

到る→到達の意、ある一定の目標に着くという方向性を多く含有する動詞

によって構成されていて、ある場所(あるいは一定の境地だけとか、内省的な場所も含む)
へ向かう強いベクトルを表す部分となっている。

本来ならば、Aの部分には「場」的な言葉が要求されていくのだけれど、
堂園さんの場合、ここに「秋茄子」を持ってくることで、
読み手の中の文の全体化が阻止される。
読み手は攪乱されるわけです。(作者はそれを承知で使用しているわけですが)

では「秋茄子」が含有するものとは何か。

茂吉的。
実り。
秋の滋味。
豊饒。
紺色。
生命の充溢。
ある季節の指示(季語でもある)
禁忌の裏側としての語句(秋茄子は嫁に食わすな)など。

そのイメージは読者によって多様でありましょう。
であるから、
結果的にねじれて全体化は阻止され、達成されないままなのです。

だが、「やがて秋茄子へと到る」の時制・空間は、
逆説的に確定されている、ということです。

うーん。難しいですね。
もうひとつ、秋茄子の歌を見ていきたい。


秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

上句を微分します。
①秋茄子を ②両手に ③乗せて ④光らせて の場合

①、②の中で具象の移動が行われることが示され、その移動の内容が③乗せて である。
だけれども③乗せて は使役動詞であるから、何らかの意図を持って
秋茄子を両手に「乗せた」のであることが無意識のうちに示されています。

そして④光らせて は③とともに使役であり、
③④は連続する、あるいは並行する 動作の隣接を示します。
また④によって明度・彩度などの条件も与えられます。
また、「連用形+て」であって、下句へ連続するかたちをとっています。



下句は口語的。どうして死ぬんだろう僕たちは と有限の生に
疑問を持っている風です。ここの下句はねじれていない。
僕たちという作中主体の、呟きに焦点が絞られてくる。

全体を通してみていきます。
上句で、ある充溢のイメージを持った秋茄子が、
摘み取られてあり、両手に乗せて光らせることをさせられるため、
(ここでは片手ではなく、両手で囲われる表象にも注目)
作中主体の目の前でその充溢がさらに強化される結果となる。

その後、作中主体を含む「僕たち」の、生への疑念めいたものが告白されるために、
この充溢とは現在位置では逆説的な生への疲れ・時間のなさ・心残りみたいなものが
読み手の方へ抽出されてくる。



秋茄子のイメージ解釈が個々の読み手にとって相当大きい語句であることを
作者は計算しておられ、その上で使用されているので、
読みの揺らぎ・不確定も当然想定内です。それを知っていて、組んである。
同様な方法意識の見える歌を挙げてみたい。

揉め事をひとつ収めて昼過ぎのねじれたドーナツを買いに行く  「本は本から生まれる」

死ぬことを恐れて泣いた子供たちと交わした遠い春の約束  「暴力的な世界における春の煮豆」

君を愛して兎が老いたら手に乗せてあまねく蕩尽に微笑んで 「感情譚」



韜晦ではないと思われるし、きちんと読んでゆくことが必要であると感じる。
「わからないところがいいんです~」と誰かがつぶやいておられたけれど、
それでいいのかなぁ。
「わからなさ」からの回避のための、
都合のいい言い訳をしてはいけないのではないか。

微分的な読みのほかに、連作単位での思考も必要だと思います。

いろいろこれからも考えてみたい歌集でした















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