2014
04.30

吉岡太朗歌集『ひだりききの機械』を読む

春真っ盛り、新年度の怒濤の一ヶ月目も無事終わりそうです。



07年に短歌研究新人賞を受賞した、吉岡太朗さんの第一歌集『ひだりききの機械』。

待望の、というのは間違いないと思う。黒瀬 珂瀾さんが解説を書いています。




受賞作の作中主体・アンドロイドの設定の連作など、

連作としての作品構成に非常に意識的。

あとがきにも作者の「連作三十作」というくだりがあって、

一首ずつは、作品世界を支える脚であり、柱のような存在であり、

作品世界を支えるために一首ずつというものが与えられている。

読者は作者の意図の統べられた世界を

存分に味わうようになっている。



対岸に青く光ってローソンはにぎわうけれど美しい墓

片足になって這いずるわしの背を百の眼窩が見下ろしている

吐きそうで不気味なぼくはある朝にオエオエマンの称号をえる

減ることと満ちゆくことの等しさの紅茶を飲むという経験は

ありとあらゆるいやらしいことして君とそろそろふつうのことがしたいな





なかでも、Ⅱの作中主体が「わし」の連作群が目を引く。
 
「わし」は独特の方言(生粋の関西というのではない、暗鬱とした雰囲気)を使い、

少し年嵩の男性・なにか身体的に不足がある設定。


「わし」の意識体は排泄に関しては明瞭さと拘りを持っていて、

あらゆる「出す」こと(短歌という創作も)は排泄であり、

どんな有意義なものもやがて汚物と成り果てる、

「汚物製造者機械」としての存在価値の呪詛と無常観のような

思索が見えます。でも同時に存在している唯一の証でもあると思う。


Ⅲ・Ⅳは今風の歌い方でこぎれいになってしまうのが

逆に残念にも???

それは作中に置かれた他者としての「君」の存在でもある。

最後は機械が「肉筆」を獲得し、肉筆で綴るところで終わる。

そのことは「れきしてき」である。



巧緻に組まれた作品世界を久々に深く永く楽しく読みました。

構造主義への志向が随所に配置されているのも注目するべき。

ペダントリィなところばかりに目がいってしまい、深く読まれることなく

過ぎ去っていかれることがないように祈りたいです。

作者のあらゆる作中主体を借りた主訴というのは、やはり生きる苦なのかなあ。

様々な苦と稀にくる小さな喜によって、ようやく生き永らえるといったような

厳しさを感じた歌集と思います。





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