2014
10.15

10月ニ思フコト 作り手ではなく読み手

Category: 思フコト
 加藤治郎氏が『短歌研究』10月号に「虚構の議論へ」という特別寄稿を行っている。先頃発表された今年の「短歌研究新人賞」の受賞作は、亡父への挽歌が内容であったが、実際はこの父親は存命中という事実に選考委員の一人として不透明感を覚えたというものだ。

 率直に言って、筆者は加藤氏が何に対して憤っているのか、最初のうちは理解できなかった。無記名の状態で受賞作を審査し、自らも納得して選んだ作品が虚構であったからか。それとも挽歌において、虚偽の「父親殺し」を行った不謹慎さのためなのか。

 寄稿ではこれまでの前衛短歌時代の虚構についても広く視野をとって論じられてはいるけれど、加藤氏の寄稿の動機が前者のように「騙された」ことに対する憤りが強かったためのように感じてしまったのである。
虚構の議論はこれをきっかけに豊かになればいいし、前衛以前以後の虚構の議論もまた再度検証されるだろうから、これから楽しみなのだけれど、では、この問題からほかに何が汲み取れるのだろうか。

 私たちは普通、作品を読み解くときに、様々なコード(指標)を用いる。短歌の場合〈私性〉の問題があるから、共有可能な作者についてのコードを得て、あらかじめ作者像を読み手それぞれが結像しながら読んでいく。
 しかし、かの新人賞選考の場合、共有されるべき作者コードはあらかじめ削除されている。即ち、読み手は作者と作者周辺の読解コードを持たずに読む。バルト的にいうなら「作者の死」であり、作品のみを、その質について選考せよ、という条件が提示されているのだから、結果的に虚構の作品だろうと現実の作品だろうと、佳品は上に上がってくる仕組みになっている。
 蓋を開けてみて、それが虚構か現実か、を知ったのちに憤ることは、新人賞選考の最初期の条件を、選考委員という立場において了解していなかったということにならないか。
 そう考えるならば、加藤氏の感じた不透明感というのは、匿名での新人賞選考という限定的な場面でのことであり、虚構か現実かという短歌作品全体への問題提起にはならない。 
 
 このことは短歌の世界で作品のみを羽ばたかせることの限界を表した一例とも言えるものであり、短歌がいかに作者コードを重要な読解コードとしているかを示す事例にはなるだろう。
  さらに指摘しておきたいのは、このように一つの作品をきっかけにした議論が起こった場合、端緒となった作品自体への批評や評価が停滞することを警戒するべきということだ。
 虚構への咎めではなく、虚構を方法として使ったのなら、なぜ用いたのか、虚構という方法において、成就のレベルやその表現の必然性や主題を丁寧に、大切に追究していくべきなのだ。
  
 一人の歌人の作品をこの一作だけではなく、もっと長い目で作品評価していくべきだ。
新人賞の挑戦や受賞は、歌人としての今後の長いキャリアで考えれば、ほんの一端でしかない。
読み手はこの一作で易怒して読み手の全信頼を裏切った歌人のように評価してはならない。
だが、すでに私たちは同じ号に載った受賞者の第一作を、誰も論じないことを見ている。すでに火中の栗を誰も拾おうとしない世界があることも知ることでもなる。

 どんな方法論を使った作品も、よい作品は人の心を動かして、おのずと残り、そうでなければ消える。
そのはずなのだが、よい作品が必ずしも残っていかない現在の短歌の世界の在り方が、このような事例の顛末にも見えているように思えてならない。

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