2014
12.16

12月ニ思フコト 後の時代が

Category: 思フコト
くだんの虚構問題はまだくすぶり続けているが、前衛短歌以来結論が出ていないこの問題について、議論の果てに見えてくるモノはあるだろうか。
 あるいは、もしも議論の「議」にも〈私性〉や〈生き方〉が反映させていかなければならないのだとしたら、これほど議論が窮屈なことはないだろう。もっと創作とは、議論とは自由なはずではなかったのか、というのが率直な感想である。そして私たちもまた、熾火がときどき小さく爆ぜて、ちろちろとちいさな炎になる程度の議論にしかならない気がしている。
 


 過日行われた「現代短歌社賞」の祝賀会で、選考委員の一人が受賞者の森垣岳の作品について注文をつけた。副賞となる歌集出版の折の注文として、建設的な指摘という形でだが、森垣の作品の語尾には現在形、もしくは「る」止めが多く、「重みがない」というものだった。
 この指摘は、紙面再録された選考過程の流れの中でも別な委員によって同じように指摘がされている。

電源の落ちたるような顔をして抗生剤を花に吸わせる

培養液の中に緑の細胞が脈打ちながら芽吹き始める 

                              森垣岳


 いずれも現在の場面として捉えた歌。
一首目は何らかの実験の場面の歌だが、進行中の様子を捉えていて印象的だ。
二首目も細胞変化の瞬間を捉えていて、微細だがいきいきとした生命感がある。

 だが、この作品に対して「重さがない」という。そのエビデンスは明確には記されていない。
筆者はこの歌を現在の様子をそのまま捉えたものとして読んだのだった。現在形にすることで純度が上がり、より印象的になる。しかし、それでは「重さが足らない」というのだ。その「感じ」とはどこから来るのだろうか。そしてもし、手直しを入れるとしたら過去形の助動詞を補うことになるのだが、それでこの歌の良さは維持できるのだろうか。

 この指摘は、現在の口語短歌で見られる現在形での語尾処理について、おそらく上の世代に感じられていることに違いない。文語を主に使う歌人からすれば、語尾の現在形には「重さがない」と感じるわけだ。なぜ「感じる」のか?少なくとも筆者は「重さがない」とは感じない。そこに著しい感覚の乖離を感じる。
 
 この問題もまた、果てしない。今、現在形語尾の短歌は普通に見られるし、現在形で終わるのには、その主題とともに定型に収めることや音感にも関連があるだろう。これという「正解」はないものと思うし、世代の乖離はこうしたところにも出ていて近づきがたく思える。

 創作者がどんな作品を志向してゆくかで、語尾の選択も自ずと決まってゆく。虚構のことにしろ、語尾にしろ、個々の創作者が選び取る表現を、その創作信条を真っ直ぐにもって一人ずつが究めていったらそれでいいのではないか。今、そしられることは気にしなくていい。凛として貫いた表現を、今がそうでなかったら、後の時代がその良さを判定するだろうと思う。



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