2015
01.15

一月ニ思フコト 文フリの位置をどう見るか

Category: 思フコト
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
更新もぽつぽつとですが、続けていきたいと思います。

今年はどんなトピックが盛り上がるでしょう。
とても楽しみです。よい一年となりますように。。

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 『現代短歌』2月号の歌壇時評で、石川美南さんが文学フリマの現状を詳細に伝えている。これを読むと、文学フリマの規模はここ十年たらずで急速に拡大し、出品する歌人も限定的な集まりであったものが、現在ではより横断的に、いわゆる「歌壇」的な活動と両立するなど、広く豊かになってきていることが分かる。

  石川さんは「個人的には、もはや『文学フリマに行って本を買い押さえておかないと、短歌の最新シーンが掴めない』という感覚がある」ともいう。活況を呈している理由は石川さんによっても考察されているけれど、さらに考えてみたい。
 
さて、「文学フリマ」のサイトには、次のような定義が掲げられている。


 「文学フリマ」とは文学作品の展示即売会です。“コミケ”やその周辺の文化を知っている人には「オールジャンルの文学同人誌即売即売会」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
 評論家・まんが原作者として知られる大塚英志さんが『群像』誌2002年6月号(講談社)掲載のエッセイ「不良債権としての文学」で行った呼びかけを発端として生まれたイベントです。
既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」をつくることを目的とし、プロ・アマといった垣根も取り払って、すべての人が〈文学〉の担い手となることができるイベントとして構想されました。



 ここで繰り返されているのは「場」という言葉である。当然のことだが、短歌総合誌には誰もが短歌を掲載できるわけではない。いわゆる「歌壇」は一定の権威を保つために登竜門としての「新人賞」を設置して大量のアマチュアの流入を押しとどめている。あるのは少々の投稿欄、あるいは短歌大会といったところだろう。
 
 結社誌だとしても、入会し、掲載されるには、相応の会費が必要で、師弟関係など、家内制手工業的な一種ギルドのような世界がある。この結社誌のさらに上層に総合誌があり、プロのみが集ういわゆる歌壇には、無数の文学を志向する人たちの発表の欲望を抑止する仕組みになっていた。ネットは誰もが気軽に作品発表できるなど、彼らの発表欲を満たすものではあったが、どうしても読者の反応をその場で体感できない欠陥があるだろう。

 生きた交流としての、「自由市場」としての「場」に多くの人たちが集うこと、限定的で一方通行的な関係性ではなく、相互扶助のように、読者と創作の相互関係性を築くこと(それは購入にあたって釣り銭が不要なように買い手があらかじめ小銭を用意していくことなど細部にもわたって)が今強く志向されているのだ。
それは師弟関係にあるような教授と授受という関係性ではない。あくまでも一個の創作者として、あるいは読者として、同じ立ち位置にあっての活動と関係性において、かの文学フリマにはいきいきとした交流が可能な「場」としての機能と魅力がある。ネットではなくフリマ、リアルでの同位置の関係性が常に強く志向されているのである。

 しかし最後のところでなぜ彼らの多くが「両立」していくのか、さらには新人賞に拘りを持つのかという疑問が残る。自分の力をなぜ新人賞で「試したい」と思うのか。あるいは誘われて結社に入って「しまう」のか。
もちろん方向は個人の考えなのだが、歌壇的な位置づけに絡め取られていくのをみるたび、なにか惜しい気持ちになる。
文学フリマのみで活動している歌人がもっといていい。市場の拡大傾向において、十分にそうした余地は既に用意されているように思う。あるいはこれから先、そうしたレジェンド歌人が現れるのを私は期待したい。








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