2015
02.15

2月ニ思フコト・トリックスターが望まれない

Category: 思フコト
 TPP(環太平洋経済連携協定)知財条項の妥結が大詰めだ。この問題のうち、著作権の非親告罪化と著作権保護期間の問題がこれからの短歌の様々な場に関わってくると思うのだけれど、これらについて短歌の世界の住人は意外に反応は希薄であるようだ。
 
前月触れた文フリなどでは前者の問題が(文芸同人誌は二次創作部は少ないが)また過去の作品の文庫化・電子書籍化や作品の雑誌再録ではいわゆる「孤児作品」なども含めて、後者の問題が強く関わってくる。
これらの問題の概観は弁護士の福井健策氏のまとめ
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/special/fukui/20150213_688136.html
が分かりやすい。

 福井氏が纏めている「情報のルールメイク」はまさにこれからであって、今まで限りなくグレーゾーンですませてきたあれこれをどこまで立法し、整理するかということに尽きる。作り手であり読み手でもある短歌作者たる私たちが、組織なり纏まりなりの単位をもって、どれほど関心をもって働きかけしていくのかが鍵だと思われるのだが、結局、尻に火がつくまで、もしくは自らに関連が発生するまでは何も関心しないということになってしまうだろう。この無関心もまた、いまの短歌の世界の一断面であるかもしれない。



『歌壇』2月号は「歌壇賞」の発表号だった。
第二十六回の歌壇賞受賞者は小谷奈央さんの「花を踏む」三十首。みすみずしい感性が光る一連だ。


てのひらにてのひらをのせ少女らは海より低い声で呼び合う

〈森〉という一人称をおもいつつ混み合う空に傘をひらきぬ

もうすこし歩けば朝がくるような道の途中に楡の木がある


 一首目、「てのひら」の語句の重なりがそのまま実体としての掌の重なりを思わせる。
複数の少女らの群れは、だが「海より低い声で呼び合う」とあって、くぐもった暗さのようなものも同時に感じさせる。
二首目、傘をひらくのは一人、主体自身なのだろうか。森という一般的な括りに含まれてしまう「個」としての自己を強く認識している歌。三首目、「もうすこし歩けば」という条件下で「朝がくる」という状況に主体がいる。希望的で明るみを帯びている歌だ。
 時間の往還が激しく一連を包む。おにぎりが冷めるまでの時間、博物館の遺物の持つ時間、何年か先の暮らしの時間を想像すること、ひかりが染みる時間。どの歌にも小さな時間の軸が含まれて、やがて大きな回帰へと繋がっていく連作である。
受賞後第一作「鮑春来」がすでに3月号に掲載されている。こちらはバドミントンが遠いモティーフになっている。

やわらかな前髪に融けそののちをながく点っている雪のつぶ

どの鳥も過去へ吸われていく途中はがねのような川面を越えて

てのひらが痛くなるまで書きうつす歌集に紅い花轢かれたり


「雪のつぶ」の存在のありよう、「鳥」が暗喩しているもの、そして「てのひらが痛くなるまで書きうつす」こと。
こちらも小さな時間が内包されている。様々な時間のなかで自己が今を生きることを注目した一連であるように思う。
今後の活躍を期待したい。

 さて、選考でとくに印象的だったのが選考委員の一人、水原紫苑氏の発言だった。
「打ちのめされるような作品を読みたいとすごく期待していたので、今回はすごく失望しました。」
厳しい言葉だが、新人への溢れる期待と選考する側の責任感がない交ぜになって出てきた発言なのだろう。
選考自体もずいぶんと紛糾したようだけれど、終わりに、これも選考委員の吉川宏志氏が
「新人には切断型の新人と継承型の新人の両方が要るんだと思います。(中略)今回は継承型の方が受賞したということだと思います」と纏めている。

 こうした言葉を聞くときに、蛸壺化、あるいは停滞をいわれる短歌界は、(商業的なものを一切排除したところで考えてみると)つねに「英雄待望論」を携えてやまないのだということを思う。あらゆる閉塞を打破する万能な「新人」の登場。それは誰しも、自らがその英雄たる新人であることを夢み、経年してからはそうした逸材を見出す伯楽として在ることを望む。だが、現実には「英雄」は顕れない。仮に「英雄」が実際に顕れたとして、現在の読み手の様相はそれを嬉々として受容しないということだ。
 
 現実に、さきの「虚構問題」では、作品に父の死を虚構として持ち込んだ「新手法」が見事に弾かれた。もしかしたら、かの受賞作こそ水原氏のいう「打ちのめされるような作品」だったのかもしれなかった。だが、吉川氏のいうように、今は(商業的にも非商業的にも)「切断型」の「打ちのめされるような」新人は、「要る」「要らない」でいえば「要らない」のだ。
 歌は時代ともに動く。世の中を見わたせば、政治状況は暗雲が立ちこめ、重苦しい雰囲気が消えない。悪ふざけした桑田佳祐も大まじめに謝罪する時代になった。トリックスターは望まれていないのだ。選考委員もまた人の子、同時代を生きている。雑誌媒体の商機も、選考委員の歌人も、選考委員によって選択される「新人」も、時代を色濃く反映してやまない。 読み手の読み幅はせまくなっている。毎回の賞の当落祝祭のなかに思う。
 

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