2010
11.15

「投瓶通信」から考える

まず、この文章を見てみます。

かなり前からある著名な文章です。


「航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投げる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意思を知る。わたしにはそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。瓶に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである・・・・略・・・。
(この)手紙も、詩と同じように、これといってはっきりと一定の人間に宛てられているわけではない。それにもかかわらず、両者は名宛人をもっている。つまり、手紙は砂に埋もれた瓶に気づいた人のものであり、詩は<後の世の読者>のものなのだ。」

     『石』より オシップ・エミリエヴィチ・マンデリシュタム・早川眞理訳


わたしも創刊にあたって、おおよそこのような趣旨で立ち上げたのは真実です。

しかし、このマンデリシュタムの希望的な観測からは

遠くはなれた場所に

現実は打ち上げられてしまいます。




即ち、受け取る側は、必ずしも、その壜に

詰められた声に適切に応えうるとは言えないから。

もしくは、黙殺されること。



ロマンティックな壜入りの手紙が、

確定的な宛先に届かされるときにも、

同じような状態は起こりえるのです。

壜







そしてわたしはこの状況を起こりえると思っていたのだろうか。

そう。確かに思っていました。



それさえも含めて、

希望・絶望を含めた壜をわたしはこれからも

流し続けることでしょう。



それらを拾い、何を読むのかは、

拾った人次第であり、

壜のまま、拾われなくとも、

波にまろくされ

あるいは

海底に沈んだとしても

それはそれなのです。




誰かに届くという感傷こそ、

海の底に消え去るべきであって、

いいたいことを壜に詰められないでいるより、

せっせと詰めた後で

水に浸されてゆきたいと思います。






それらをわたしは考えながら・・。










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