2015
07.16

7月に思うこと・政治性と短歌

『歌壇』8月号の特集は「戦後七十年、被爆と被曝を考える」だった。

いまだに福島の汚染に悩まされている者にとって、注目すべき特集だった。
しかし、執筆者の多くが、被爆にしろ、被曝にしろ、そこに含有される政治性にはまったく触れずに
書いていることに少しく落胆したのである。

短歌とは、いったいいかなる器であるか。震災詠として放射能汚染の状況の歌も多く詠まれたが、
それは「状況」の歌であって、除染の巨大な黒い土嚢とか、モニタリングポストのある風景だとか
結果的に原発事故後に発生した「新奇な風土」の歌が羅列されただけだったのである。

問題はそこではない。たとえば被曝という結果が含む、
私たち福島のこれまでの風土性と、そして政治的要素からの影響に触れずして、
被曝の歌は成立できないし、これからも単に状況の歌が増えるだけだろう。

短歌はいつから思想を容れなくなってしまったのだろう。
おずおずと遠慮がちに詠う「原発詠」の表現の隘路は、
このたびの安保法制をまた、詠うに及んでも発生するだろう。
「充分な議論のされないまま」とはよく使われた言葉だが、
「詠いづらい」ことを回避するのみでよく議論されないまま、「被曝」の歌の盛りは終わったのである。
そして、「被爆」の歌はこれまで竹山広ひとりに任されてきてしまったのである。

居心地の悪い現実からすぐに離れて、歌はまた圧倒的な次のトピックを見付けてはしゃぐ。
そうした人たちの集う層の、そろそろ底が見えてきた、という気がするのは、筆者だけだろうか。






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