2015
08.16

8月に思うこと・傾れの方向

Category: 思フコト
戦後七十年の今年、安保法案の話題もあって、例年とは異なる、熱を帯びた8月になった。


歌人も敏感にこの動きに反応していて、9月27日には永田和宏、三枝昂之氏らの参加によって
京都でシンポジウムも開かれるという。
即応する歌人たちの姿は実に頼もしいが、見ていて不安にもなってくるのは筆者だけだろうか。

例えば安保法制に反対、という姿勢を見せる歌は多々あれど、
賛成という歌をまったく見ない。
歌人であっても完き割合で反対の人だけがいるわけではないだろう。
そうすると、賛成の歌人は、その意思を表明すること無しに
今の今、ひっそりと押し黙っているのではあるまいか。


様々な意見を持つ人がいて、とことんまで議論する、
それが豊かな「場」である筈なのに、議論はない。
ただ安保法案反対の人がいるのみである。


 常に権力と反対の側にあること、じっと目をこらすこと、その姿勢は尊い。
だが、異なる意見を含まない現在の「純」な状態は、
主張の内容ではなく、その一方のみの傾れという現象のみをみれば、
かつて歌壇が大政翼賛に一気呵成に傾いていった、あの勢いと相似だとも思う。

私たちは、常に異なる意見を容れる余地を担保しておかねばならないのではないか。


この現象は、過去の「反原発」の時にも見た。
「反原発」の「反」という急先鋒は、やがて「脱」という柔らかなものに変わっていき、
そしてついには、「再稼働」の「反対」になった。
原発の存在は認めて、だが動かすな、というところまで後退したわけだ。
そしてもちろん原発容認派はあとかたもなく、
今では原発関連のトピックは消費期限切れにも似た扱いになっている。


ポピュリズムに帯同し、すぐに則られてしまう動きが、筆者には恐ろしく思われる。
もちろん、筆者も安保法制には反対なのだけれど、
異なる意見や、そうした志によって創られている歌を読んで、議論して、考えてみたいのだ。
うたの世界はもっと深く豊かではなかったのか。
 

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