2015
10.17

10月に思うこと・結社というコミュニティ

Category: 思フコト
手前味噌だが、9月下旬、私が所属する結社「潮音」創刊100周年を記念する祝賀会が、
都内のホテルで盛大に執り行われた。 

来賓や社友を合わせると300名超の参加者があり、昼食を挟んでほぼ半日を費やした
華やかさは瞠目に値するものだったが、
一方でそんな豪華な体面を維持しなければならない「結社」について考えてしまった。

「今・ここ」に集まっている人々は、いずれも師系や結社同士の大小の繋がりがあって
在る人たちである。その繋がりを成立させているものとは、長い歳月と、これまた結社間の繋がりであろう。

来賓は一個の歌人として、ということのほかに、自らもまた所属する結社と、
そして歳月によって権威を獲得し、今日の「来賓」たり得ている。
さらに社友は多くは長く結社に入っていた人が会に集っているように見え、
同族経営?によって継いでいくことになっている主宰の一族とともに
例えば親子三代で(祖母が創刊直後から入っていた、など)結社に参加しているという人もあって、
歳月のより深い人たちが、一堂に会してその日をより感慨深げに過ごしているのである。

だが、例えば200年後、この会と同規模かそれ以上に200年記念祝賀会をやることができるかと問えば、自分は否だと思う。

権威や、繋がりや、そうしたある一定以上濃い無償の愛によって支えられるコミュニティのありかたは、
現在においてその会場を一歩出れば、まったくといっていいほど前時代的様相を帯びているシロモノだ。

人と人との関係性やある意味仁義のようなもの、上意下達で、ゆるぎない師系と
無償の愛情によってはぐくまれていくコミュニティの存在自体が、
すでに遠い過去の産物に思えてならなかった。
それは、筆者自身が、日々を師系によって強烈に繋がれている環境に過ごしていないからだとも言えるだろう。

あるサービスを得るために金銭を支払い、合理的にそのサービスを手に入れる。
そこに上下も権威も繋がりもない。ただ等価で平等なサービスの享受があるのみである。

結社のあれこれは、実はそうしたものとまったく真逆の位置にある。
善意の貢物が少なくなったらならば、今ある一定のレベルを保つことは難しい。

結社の存続があったとして、
存続したとしてもやがて一介の文化サービス産業へと変化を余儀なくされるだろう。
教えと作品と、師系と無償の愛情によって左右されるのではなく、
同一の位置によって知識や楽しみを授受され・する、サービスの売買によって成立していく。
事務は無償の善意の行為によって支えられていくのではなく、限りなくアウトソーシングで行われる。

結社のなかで高齢化が叫ばれ、一方で若年層が消えている、
そのことはこうした無形のものに依存しているからではないだろうか。
魅力ある結社とは何かを考え、つなぎ止めようと苦闘する前に
現在の結社に対する思考を大転換するべきではないのか。
結社もまた変化のときを迎えなければならないのではと感じた1日だった。








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