2016
04.17

4月に思うこと・韻律論みたび

今年生誕90周年となる、アレン・ギンズバーグへのオマージュとして、
6月4日(土)、すみだトリフォニーホールでコンサートが開かれる。

フィリップ・グラスとパティ・スミスという著名アーティストの競演のほかに、
村上春樹氏と柴田元幸氏が翻訳したギンズバーグの詩が
ステージ上のスクリーンに投影されるとあっては、
ファンならずとも聴講したくなるというものだ。
ポエトリーリーディングの真髄を味わういい機会かもしれない。

短歌朗読はこれまでずっと福島泰樹氏がおこなっていて、
聴いた人は短歌そのものの韻律や声調の意味について改めて考えずにはいられないだろう。
一瞬で読み終わる短歌の韻律ということについて、
歌を読む上で主題や内容に乗っ取られがちな読み手にとっては、
実は定型であることということの意味あいを根本に立ち戻って皮膚感覚で考えることが必要なのかも知れない。

『塔』4月号には浅野大輝氏が「『定型っぽく読める』を考える」と題して
短歌韻律への論考を寄せている。

浅野は、歌の破調構造が案外気付きづらく、
また、そうした破調の韻律をごく自然に受容していたという自身の経験をきっかけとして
最近の韻律論の復権や岡井隆の唱えた韻律論を検証していく。

浅野は多く読み手側の認識について注目していて、その結論と仮説も大いに同意できるが、
例えば読み手側ではなく、作り手側の認識についてはどうなのか、ということが少し気になった。

たとえば挙例されている千種創一の短歌は句点が多用されて、
(千種氏の歌集批評会でも、破調についての論議があった・
千種氏本人による批評会記録→http://dunestune.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

千種氏の作品は、短歌のもともとの韻律からは意味的・韻律的に離れた上で
改めて作者によって韻律を意識的に仕切り直しされたものが多いのだが、

その仕切り直しに、短歌の定型枠の概念を当てはめて考えていくことは
既にフレームアウトしてしまうことなのではないか。

短歌の韻律はたとえば音声言語になったときに
最初に書いたギンズバーグの詩や
福島泰樹氏の短歌絶叫コンサートのようにさらなる効力を得るとも思うけれど、

読み手のなかで歌が表象化・音声言語化されていくときに
最大限効力を発揮するように組まれた歌と、そうではない無意識に組まれた歌とでは、
あきらかに読み手の表象化の度合いが異なってくるのだ。
そしてそれはもう短歌概念の枠組みを越えて、
もっと自由に一行の文字列として考えていく必要があると思うのだが、
どうだろうか。
千種氏らの作品に限らず、
作り手側の方法論として、さらにサンプルの収集と検証が必要な宿題だと思われる。











back-to-top