2016
07.18

7月に思うこと・「短歌にとって人間とは何か」

Category: 思フコト
岩手県の日本現代詩歌文学館が発行する館報77号に
角川『短歌』の編集長・石川一郎氏が寄稿している。

石川氏はここで、かつて行われた批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談
(『対話 人間の建設』)より)に触れ、
彼らが、ものを考えている人間がうまく問いを出せていないにもかかわらず、
答えばかりだそうとあせっている現状と、問いの大切さについて改めて指摘している。

例えば氏は『短歌』の編集に、やはりこの「問い」を大切にしていると続ける。
それは既刊誌面の特集となった「短歌にとって人間とは何か」に結実し、
また「短歌とは何か、読みとは何か」という通底する主題に繋がっていると述べ、
さらに模索していきたいとしている。重要な指摘である。

「短歌にとって人間とはなにか」という問いは、
ここ最近に勃興したのではない、一定の流れを示すものだ。
ある方位において主体の位置づけを攪乱した作品群が流行する中で、
この「人間」という主体を問い続ける動きはひそやかにかつ確実に存在してきたのだ。

最近の著書から。

「今の人たちが人間への関心から離れてることが私としてはつまらない。
人間くらいおもしろいものは、ないじゃないの」
                  『寂しさが歌の源だから』馬場あき子(角川書店)

「短歌は自分の現在や過去を記録するものではなく、自分の未来の生をつくっていくものだと、
かすかながらに確信していたということ。
自らの『いっさいの生』をあらわにし、あらわにすることによって新しい生をつくってゆく。」
   
「日ごろから、自分にとって歌を作ることはどんな意味があるのかといった
問いを抱いていることが必要であると思われる。始終、問うともなく、問わぬともなく、問い続けていなければならない」

                  『短歌講座キャラバン』阿木津英(現代短歌社)

人間、生、そして問い。馬場氏も阿木津氏も、根底には同じものを流している。
それでも、もうブラキストン線が引かれて、あちらとこちらにわかたれたような現在に、
この問いはまだ、問いかけの力を遺しているだろうか。継続して考えたい。









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