2017
01.17

1月に思うこと・無意識な当て嵌め

Category: 思フコト
『現代短歌』二月号の特集は「沖縄を詠む」。
2月5日に沖縄で開かれるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる短歌」と呼応しており、
頁に渡る総力特集である。
沖縄在住、県外を問わず、幅広い世代に執筆者の枠を拡げていて
読み応えがあった。

読み進めていくうちに次のような歌に出会う。

熊本と沖縄を行き来していると告げるあなたは外国の人  久保まり子「仮想沖縄」

手のひらを合わせただけでさようなら私は今日もここで生きてく  當銘さゆり「日常」

たとえば、これらの歌歌から見えてくるものは、本土の人たちへの冷めた視点である。
沖縄が抱える諸問題に取り組もうと意気込んでやってくる人たちを、
そして滞在が終わり去ってゆく人たちを
もうこの人たちはこれまでに何度も見てきているのだろう。
こうした感情が形成されるに到った来沖者の姿勢を、
筆者は今も深く疑わずにはいらない。
それは、原発事故に苦しむ私たちの姿とすっかり重なったからでもある。

少し前の論考になるが、中山昭彦は
「〈アイヌ〉と〈沖縄〉をめぐる文学の現在」のなかで、(岩波講座・文学13に所収)
「日本人」向けのマスメディアが構成するステレオタイプの「沖縄」像が
現地の人自体にも内面化され、そのイメージを逆転させる努力が、
さらに沖縄の古来からの独自性や個性を消去・逸脱させるものでしかないという
二重拘束があることを指摘している。

たとえば、なぜ沖縄の人は「基地の押しつけ」に対して憤るのに、
それを本土の詩型である短歌で詠うのか、既にそこに沖縄植民地支配からの
同化政策の影響があって、その詩型を使って歌えば歌うほど、
沖縄という土地の持つ苦悩は消えていくほかないという矛盾をずっと抱えているのだ。

支配的な日本語という力は、すでにして沖縄の少数の言葉を多く蝕んでおり、
今また、短歌という視点に立って再びあるいは三度沖縄の人に「語らせている」だけでしかなく、
そのことについて多少、琉歌のことはでてくるものの、
今回の特集でも触れられることはなかったに等しい。
ゆえに、この二つの歌歌を単なる本土の人たちの
取り組みへの諦念とみてはいけないのではないか。

きたるシンポジウムで、「日本人」が知らずして嵌め込む、
表現の累々としたファッショについても議論されることを期待したい。
(まあ寸分もそんなことはないでしょうが。。)





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