2017
04.18

4月に思うこと・世界には男と女だけか

Category: 思フコト
瀬戸夏子氏の角川『短歌』の時評
「死ね、オフィーリア、死ね」と題された論考が4月号で完結した。

とても共感したり、年嵩の歌人として
彼女にここまで書かせてしまうことの申し訳なさも感じたが、
性差別への指摘のほかに、
セクシュアル・マイノリティについての考察が
ほとんど見られなかったことが気になった。  

ジェンダーへのセンシティブな問いを辿っていくなかで、
自分には、佐竹游氏の歌集『草笛』(二〇一四年・現代短歌社)が想起される。

 嫌悪感あらはにからだ捩ぢりたり受胎告知をなされてマリア
 

 同性愛揶揄して笑ふ席に居てわれはひとりを黙しつつをり
 

 レスビアンと名告れば職を失ふぞと或る物書きが忠告しくれき


この歌集では、レズビアンと呼称されるセクシュアル・マイノリティと、
その葛藤や孤独、そして社会的差別を自らの歌の上に問うている。
著者の佐竹氏は歌集のあとがきにおいて、
自身がこれまで関わってきたフェミニズム研究への取り組みを述べ、
さらに自らの性的指向について述べたこの歌集が、
「レズビアンであることの生き難さがテーマのひとつ」と記している。

本歌集について特集された『八雁』(2015年7月号)では、
黒瀬珂瀾・島田幸典・金井淑子(立正大学文学部哲学科元教授・女性学研究者)の
三氏がそれぞれ評を寄せている。

「これらの歌は、広大な世界での〈私〉の位置の問い直しであり、
現実社会で摩滅させられた〈私〉の生の奪還である。(黒瀬珂瀾氏)

「すなわち、私とは何かという問いに積極的な回答や定義を与えるのではなく、
むしろ存在の言いがたさ、存在と言葉のあいだに生まれる亀裂と乖離、
そこに佐竹の歌は焦点を結ぶのである」(島田幸典氏)


「私も、女性の表現にとっての短歌という形式のもつ意味に着目し、
短歌や詩的表現が、身体性を介した表現の場であり、
女性の経験の「臨床の声の場」としての可能性を見てきた」(金井淑子氏)


今挙げた三氏にそれぞれ通底するのは「個」「私」についてである。
たとえば、瀬戸氏はこの『草笛』をどう読むのだろうか。

瀬戸氏が激しく指摘した歌壇における性差別への問いは、
今後の氏自身へ立ち還っていくことなのだと思う。

歌壇へ何らかの応答や改善を期待するのではなく、
自らの作品や文章によってどのようにこれらの問題に向き合っていくのかにあると思う。
「他」からどんな扱いを受けたか、ではなく、
すべては「個」のありかたに帰結する。

時評もまだ続く。今後を楽しみにしたい。
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