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2018
07.06

6月に思ったこと・村上春樹氏の短編小説をめぐって

Category: 思フコト
月1回の「思うこと」、
6月に挙げるはずがずいぶん遅くなってしまいました。
以下、思うところ書いていきます。

六月七日発売の文學界七月号に、
村上春樹氏の新作短編「三つの短い話」が掲載されている。




なかの「石のまくらに」という作品には
短歌がモティーフとして使われている。
ざっくりとしたあらすじはこんな風だ。

 「僕」が二十歳くらいのとき、
アルバイトの同僚で二十代半ばの女性と一夜を共にする。
その女性の同僚は少し風変わりで、短歌を書いているという。

読みたいという「僕」の願いによって、
一週間後、「僕」の家には自作の歌集が送られてくる。
糸で綴じた限定部数の私家版の歌集である。
以来、女性とは二度と会うことなかったが、
「僕」は読み返して女性を想う。
 この作品中の短歌は、たとえばこんなものだ。

石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは
流される血の/音のなさ、なさ

今のとき/ときが今なら/この今を
ぬきさしならぬ/今とするしか

やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく
あじさいの根もとに/六月の水

 一読、短歌に親しんだ人なら違和感を覚えるに違いない。
表記自体や句またがり、
そして内容についても意味がとれないのである。
二首目は有限な今という時間を、
三首目は斬首のイメージが濃厚で、死を連想させる。
そもそも石枕は古墳時代に死者の葬りに使用された事実もあるから、
ここでの「石のまくら」はそうでないにしても、死のイメージは想起できる。

作中の「僕」は、
「僕の心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた。」というのである。
この主人公の「僕」が提示する読み方に従って、
そのように機能するように、
作中の要素として「僕」たちのエピソードと連結して置かれている、ということになる。
 ここで二つのことを考える。

一つ目は、作品中に挿入された短歌が、
同僚の女性を投影したものとして機能しているかどうか、である。
読み手が登場人物のエピソードを読んできて、
挿入された短歌の部分と連結するときに、
挿入された短歌は、前述までの人物像を補強するものであるかどうかである。
今回の小説の場合、少なくとも、同僚女性の人物像にあわせて、
意図的に奇妙な感じの短歌に仕上げてあったとしても、
なお連結するのに有効な仕掛けとはいいにくい。

もう一つは、かの『源氏物語』がこの「石のまくら」と同じ方法をとっていたということだ。
『源氏物語』の場合、各登場人物の人物像と
挿入された和歌は完全に連結している。
すなわち、挿入和歌以前に述べられる登場人物の心情や状況と、
そのあとにくる歌に齟齬がない。
相互に補強しあう関係を持ち、連結して物語世界をより深みのあるものにしている。
今回の連結の方法は、
あるいは散文と歌、詞書と歌、歌と歌といった連結の方法にも応用することはできる。
相互に補強し合い、それぞれ連結して無理のない流れをつくることは、
作品世界の完成度を高めるために必要なものだ。

少し前、歌の世界をにぎわしたフィクションの問題についても、
遡って同様なことが言えるだろう。
つまり、フィクションとして作品を提示するならば、
隙間のない、完璧な連結が必要となる。

しかし今回の村上氏の作品は、
とりわけ短歌をやっている人にはなかなか受容が難しい「歌」だった。
あるねらいがあったとしても、成功しているとはいいがたい「歌」だった。
(一般の読者のなかには、「女性」のキャラによくあっているという評価もある模様)

作品を多く流通させることは、なかなか難しい。
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