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2018
07.30

7月に思うこと・『美しい顔』の現場性

北条裕子さんの小説『美しい顔』が芥川賞候補になり、
「盗作」騒ぎによって? 受賞作よりも話題をさらったまま、落選した。

この顛末は各所で述べられているので、触れるのは控えたく思うのだが、
震災で被災した者にしてみれば、唖然とするほかなかった。
その唖然の内容は、「盗作」という疑惑が現れたことではなく、
作者が「経験していない・現地に行っていない」ということが、
当初から疑惑以前に大きくクローズアップされていたことだ。

経験しないで、こんなにかけたのか、
経験しないので、やっぱりこの程度なのか
経験したのに、この程度なのか、
経験したので、こんなに書けたのか。

この四択でしかないのが、不寛容な感じがする。

三浦綾子氏の『泥流地帯』『続・泥流地帯』は、
かつての北海道・十勝岳噴火に材をとっていて、
三浦は取材に現地に行って、被災された方たちに話をきき、
詳細に記録をあたっている。(参考文献は記している)

しかし、作品化された『泥流地帯』は、
むしろ、ほとんどを登場人物たちの人物描写や性格付けに費やしていて、
泥流に襲われるのは巻尾の僅かな部分である。

描かれるのは、人間たちの平凡な、
(しかし個々にとっては己の生と格闘する日々でもある)
営みが一瞬にして無になる、
無に帰した人は、それ以降どんな風に生きるのかいうことが、軸である。
泥流に襲われることは、「無に帰す」ことのギミックでしかない。
(究極には、十勝岳噴火そのことである必要性はない)

『泥流地帯』がお手本であるとは思わないけれど、
災害を扱った作品として比較すると、骨格がよく見えてくると思う。

主題は描出の向こう側にある、と言いたい。
しかし、今回の作者は、そこへの到達もなかったし
(このことは選考総評で指摘されていたように思う)
評価する側も作者の「経験の有無・現地を踏んだか否か」ばかり気にしていたようのではないか。

短歌の世界も経験尊重だったことを考えれば、
通底するところは同じで、嘆息しかない。
どんな歌材を扱おうとも、材の向こうに何を見ているかなのだと思う。

今回の1件で、ますます震災を描く試みは遠のくのではないか。











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