2011
08.08

私が見たもの

Category: 壜のなかみ
ちょっと今日は、「潮音」の原稿用なのですが、
自分的に、今の自分の気持ちが良く表せているような文章になったので、
長いのですが載せたいと思います。

 
三月十一日の震災からまもなく5ヶ月が経つ。あの地震が引き起こした福島第1原子力発電所の事故は、復興に向かうべき被災地福島県の我々にとってはとてつもなく大きな障壁となって、歩み出すことができないでいる。土地もそこからつくられる作物も、みな汚染されてしまい、高村光太郎の妻智恵子がいった「ほんとの空」もいまではセシウムに煙っていると思うと見上げても虚しい。

 私が住むいわき市は、第1原発からは約四十五キロの位置にあり、震災直後から市外・県外へと避難者が相次いだ。
現在の市内中心部の放射線量は毎時0.18マイクロシーベルト。だが、山間部ではいわゆる「ホットスポット」が存在し、特定避難勧奨地点の認定申請を待っている地区もある。広いので一概に値が低くなっているとは言えないのだ。

 そうした状況は、小さい子どもを持つ世帯の不安を増大させ、現在も次々と街を離れていく親子が絶えない。私の子どもが通う小学校でも、夏休みまでに、二割ほどの子どもが市外へ転校していった。アパートの上の部屋に住む、幼稚園児と赤ちゃんのいるお母さんは、ご主人だけを残してどちらかへ行ったまま、震災からまったく帰ってきていない。

 反対にいわき市に増えたのが、原発間近の双葉郡から避難してきた人たちのコミュニティだ。分譲されるはずだった宅地予定地には、仮設住宅が建設され、多くの人たちが住む。この流入は今も続いていて、双葉郡内からは今後も二万人がいわき市に流入してくるだろうと予想されている。
住んでいた土地を追われた人々には、見ず知らずの土地や内陸部に移るよりも、同じ沿岸部に隣接するいわき市で再起を待ちたいということなのだろう。もともとの地元民は避難してゆく一方で、避難してくる人たちがいる。そんな矛盾を抱えているのが現在のいわき市だ。



8月初旬のことだ、私は駅前にある図書館へ出かけた。もう昼に近かったが、ふと見ると、見慣れないバスが三台ほど連なって停車している。ふと見ると、フロントガラスには「いわき駅前―新単身寮―Jヴィレッジ」とあり、男たちがぎっしりと乗って発車を待っていた。Jヴィレッジというのは、双葉郡広野町にあるサッカーの練習施設で、少し前までは有名選手たちが来て合宿を行なったりするなど、サッカーファンには有名な施設だったのだが、いまは原発事故収束作業にあたる人々の、原発へ向かう際の中継基地となっている。人も資材もいったんは此処に集められ、更に振り分けられて原発へと運ばれていく。

バスの男たちは、これから原発へ作業へ向かう作業員たちだった。彼らはバスに乗り込んで発車を待ちながら、窓枠に肘をついて頬杖をしたり、行き交う人たちを眺めたりしていた。だが、誰も談笑していなかった。そうして、あまり若くはない、目の回りだけが異様に赤黒く日焼けした(作業時に全頭マスクをするためであろう)男たちの表情は、まったく無表情に見えた。これからいく原発が不安だとか、ひどい被曝をしてしまう恐怖などは微塵もその表情からは読み取れなかった。実際、そんなことを気にしていたら、その戦きで原発に行くことも、現地で作業を行うこともできないからに違いなかった。自らの思考の一切をすっかり停止させることで、心の平衡を保っているようだった。バスは午前11時きっかりに出発していった。おそらく毎日何回かこうして作業員たちを運んでいるのだろう。


私はそのバスを見送りながら、ひどく罪悪感を感じた。いま、まがりなりにも図書館で本を借りたり、短歌を詠んだりしている日常が取り戻せているのは、誰の働きによるか。それは政治家でも学者でもない、あの男たちの決死の働きによってもたらされたものである。あの人たちは我々のうらうらとした日常と引き替えに、今日もとんでもない量の被曝をしてしまうだろう。そして近い将来、何らかの病を得る確率は我々より遙かに高いだろう。そう思うと何とも言えない気持ちが胸に起こり、いたたまれなくなった。

ある知り合いは、駅前のビジネスホテルは、東電や関連企業が借り上げに近い形で部屋を押さえ、全国から集められている作業員たちの宿舎として軒並み満室であると教えてくれた。現場で作業していると、すぐに被曝限度許容量を超えてしまうために、膨大な数の交代人員が必要なのだという。その人たちの明日の活力を養う場として、いわき駅前は新たな役割を得たらしかった。



帰宅して子どもにバスの作業員のことを話すと、子どもは特に驚いた様子でもなく、「ああ、まーくんのお父さんも原発で働いてるって言ってた。すぐ帰ってきて、お休みがちょっと長めなんだって。」と言った。「まーくん」は子どもの友だちの名前である。作業には被曝の弊害を少しでも抑えるように独特のシフトがあるのか。そしてあの虚無的な表情をしていた男たちの一人一人にたぶん「まーくん」のような息子がいて、それぞれがどこかで誰かの父親であり、夫であり、兄であるかもしれないのだった。「まーくん」の父親をはじめとした原発作業員や、その作業員の家族の未来は、いったいどの程度健康で幸福なものを約束されているのだろう。本人も家族も押しつぶされそうな不安を抱えつつ、不安定な日常を送っているのに違いない。内部被曝だ、牛肉だ、米だ、セシウムだ、と騒いでいる間も、彼らの作業実態については報道もされず、彼らは今日も生きたロボットとなって事故の収束作業に当たっている。


私はここまで考えて、この期に及んでなぜ短歌をやっているのかよく分からなくなってきた。もちろん、震災当初は自分自身も命の危険さえ感じたし、そうした中で歌をすこしでも残したいとも思ってがむしゃらに歌を作った。だが現在はそうした一時の危機的状況も落ち着いて、放射能の不安はあるけれど、安寧な生活が戻りつつある。一首を考え、歌会を開き、歌友と交流できるのは、誰かが犠牲となって成立させている日常があるからだということをもう一度深く考えるべきだと思った。








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