2017
12.18

12月に思うこと・職業詠ということ

Category: 思フコト
首都圏(あるいは都市、といったほうがいいのか)
から遠く離れて暮らしていると、
都市特有の短歌の伝播のしかたがあるように思う。

それはイベントの開催である。
たとえば、それぞれの自分自身の環境で、散り散りに活動している歌人たちが、
同人誌を編む、あるいはそれぞれの歌集を編む。

その頒布や理解を深めるために、人を集めて読む会を開く。
批評会、コミケ、その他にしてもいずれ人が集まる。
パネラー(あるいは演者)を立て、話し、休憩をいれて、一般参加者も参加する。

都市ではこの形式によって大学などの文化的環境(学会ではない)や
音楽系のストア、書店でも催されているのに驚く。
多くは上記のような「定型」があって、粛々と会は進む。

地方ではそんなイベントはあまり見かけない。
あるのは大型商業店でのちびっこ向けイベントか
地元の学校の学園祭くらいなものだ。
それを思うにつけても、こうしたイベントは、
都市が持つ固有の文化の在り方だとも思う。

「定型」があることにも是非はあって、
なかにはそれぞれがてんでに発言し、
何らの進展もないものもあって、いったいこの「会」には
どんな形が理想の着地だったのか、考えてしまうことがある。

また来年も様々なイベントが開かれることだろう。
歌会に参加することについて、
大きく意見が交わされた年であったけれども、
イベントの在り方、自身の参加のしかたも
考えてみることも必要なのかもしれないと考える。












2017
11.19

11月に思うこと・評論という文体

Category: 思フコト
私事だが、大学時代の恩師がさきごろ亡くなり、
先週は偲ぶ会が行われるというので、出かけてきた。

偲ぶ会では学生時代には触れ得なかった恩師の人となりや生の歩み、
思考などが教え子の人たちによって語られて、
学生時代、もっとも身近であったはずの恩師の像が、
実は自分にとってひとつの断片に過ぎず、
会ではじめて恩師の全体像がくきやかに結んだような気がしたのである。

会に伺うにあたって、書棚の奥から恩師の書いた評論の書籍を取り出した。
恩師は中野重治の研究者であった。
学生時代から遠く離れて読む師の評論は、
研究者として緻密な視点にあふれ、それでいてわかりやすく
確実に伝わるように考え抜かれて言葉が選ばれているようであった。
決して難解な・詰問的な・あるいは学術的な高潔な雰囲気に覆われた雰囲気ではなかった。

そして自分は、いまさらのように思うのだが、評論にも文体があるのだと
あらためて思った。書き手の人となり、思考、伝える姿勢、
そうした「人間」は、なにも短歌でなくとも、その表出に現れる。
かりに隠そうと思っても、その人となりは確実に表れる。
恐ろしいことであり、また素晴らしいことでもある。
私たちは書いたもののほかに、
その人そのものの考える森を何度も歩くことが出来るのだから。








2017
10.17

10月に思うこと・女性と表現

Category: 思フコト
先月下旬に刊行された「早稲田文学」増刊号は、
川上未映子氏の手に依る特別編集で、「女性と表現」がテーマ。



短歌の世界からは栗木京子氏、東直子氏や雪舟えま氏が名前を連ねている。
11月26日には早稲田大学でシンポジウムも開かれるという。
(9月には刊行記念のイベントもすでに開催)
↓↓
早稲田文学・女性号シンポジウム

川上氏は巻頭言の中で、「古くて白けて今更フェミニズム」の空気があるなかで、
今、すべてのそうした空気なり問題点なりを記録しておきたいとしている。
http://www.mieko.jp/blog/2017/09/02/1881.html
かけがえのない試みだと思う。
最近、短歌の世界でもフェミニズムへの問いが勃興したが、
大きなうねりにならないまま終わった。

そうしたなかで、関西の女性歌人たちが同人誌「ぱらぴゅるい」を刊行した。
こちらは尾崎まゆみさんらが関わって、
関西在住の女性歌人が世代を越えて集い、短歌について綴り、語る。

なぜ女性だけ?その問いは、
早稲田文学の川上氏の巻頭言に書かれていることもつながっていくだろう。

「女性であること」をとりあげるとき、「古くて白けて今更フェミ」感がつきまとう。
しかし、「女性であること」をもう一度深く考える角度で、
この「ばらぴゅるい」を拝読することも必要であると思う。










2017
09.18

9月に思うこと・電気羊の詠む歌

Category: 思フコト
近頃、こんな本を読んだ。



「日本を代表するSF作家たちが人工知能を題材にショートショートを競作し、
それを「対話システム」「神経科学」「自動運転」「人工知能と法律」
「環境に在る知能」「人工知能と哲学」「ゲームAI」「人工知能と創作」の
8つのテーマ別に編集、
テーマごとに第一線の研究者たちが解説を執筆した画期的コラボ企画。」

というふれこみ。この小説自体はAIが執筆したものではないのだけれど、
近未来がリアリティをもって迫ってくる。
自動車の自動運転も実現に近づいている今、文学作品とAIとの共存というのも、
この本に依らずとも、いよいよ現実味を帯びてきたのではないか。

こんなサイトもある。「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」
https://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/index.html
昨年には星新一賞にAIが書いた文学作品が一時通過したニュースがあった。

これまで短歌の世界では自動短歌生成装置「星野しずる」が著名だった。
星野を形成する多くの語彙は、作成者の語彙環境に多く依存してきたと思う。
今、ここからさらに一歩進んで、ひとりの人間となって主体を構築し、
短歌を綴っていく、歌集単位のAI作家が現れたとしたらどうだろう。

氏名を伏せて審査される新人賞は、
もはや虚構か真実かを案ずるレベルではなく、
(なぜなら、作者自身が虚構なのだから)
審査軸を根本から変革することを余儀なくされるだろう。
さらには著作権の問題も新しく付加されてくるだろう。

10年先、20年先まで見つめて、
私たちは短歌にどう関わっていくべきか、改めて考えさせられる。







2017
08.21

8月に思うこと・勝ちにゆくということ

Category: 思フコト
いろいろな場、とくに競い合う場で選をする立場をいただくようになってから、
いつも思うことがある。

参加者の方たちからはからずも声を漏れ聞く機会もあるのだが、
そのなかで「勝ちにいく」という言葉がある。

選ぶ・選ばれる場にあれば当然なのだが、
どうしてもそこに選ばれたい、戦いなら勝ちたいという欲が出てくる。
そうすると、それが意識・無意識のうちに歌に出てしまう。

「出てしまう」とはどこからそんなことを言うのか、と訝しむ向きもあろう。
はっきりでている歌を示せ、エビデンスを示せという方もあろう。
もちろん言葉として発せられるときもあるし、
歌の場合は具体的にどう、ということではないが、
我欲のようなものが存在するのが分かる、ということだ。

人は誰しもよいことがあればうれしい。
歌会での高得点、入賞、勝利、それはだれでもがうれしい。
競い合うことで高められるものもあるだろう。
だが歌を作る上でそのことが主たる目的になったとしたら、
あまりにも悲しくないだろうか。
やはり一度は「勝ちに行く」歌を作ったとしても、
そこから抜け出してゆかなければ、歌の道は不幸なものでしかない。

こんなことを考えるとき、
私はいつも山本周五郎の「鼓くらべ」という掌編小説を思い出す。

鼓の名手とうたわれた男がある日、競い合いの果て、
相手の鼓の皮を割るほどの気迫をみせて優勝する。
しかし、栄誉を手にしたはずのその男は、
その後自らの腕を折って、行方をくらます。
後年の物語が前後にあるのだが、
なぜこの男が鼓を捨て、自らの腕を折ったのか。

(このサイトでは全編が読める。)
https://www.douban.com/group/topic/15118691/

選という行為に、この話を思い出す。
願わくば、さらに「勝ちにいく」価値から進まれて、
自らの文体を掴んでほしいし、自分もまたその途上であることを記したい。

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