2016
11.17

11月に思うこと・自分の文体を

Category: 思フコト
今年も各総合誌の新人賞が出そろった。

選考過程が誌上公開されているのは短歌界のいいところで、
選考委員のナマなやりとりはいつでも衆目を集めるものであるようだ。

しかし、これも毎年恒例(なのだろうか?)のことなのだが、
選考委員の一言一句に何かしら引っかかる部分があるようで、
ネット界隈ではその文言に対してプチ炎上してしまう。
今年も、であった。

正直、筆者は「またですか?」と思ってしまう。
いや、その口火を切る人は、炎上させることも計算の上でなのかもしれないけれど、
もうベタな流れのひとつでしかない。(いや、炎上じゃなく、
議論ですよという方々も居られるだろう。でも自分にはくだらん炎上にしか見えないです)

新人賞は、賞である以上、選考され、賞をもらう応募作品もでてくれば、
振り落とされる応募作品も必ず発生する。
選考は、編集部によって選考のうえ指名されて受諾した、
たった数人のやとわれ選考委員による価値観の選抜だ。
臨場したその「場」の目に見えぬ流れのようなのもあるだろう。
たった数時間の選考で、、数人の価値観が、その年の「新人」のゆくえを左右する。

「それだけ」なのに、なぜ一喜一憂するのか。
数人の選考委員の歌人全員がそっぽを向いた作品であっても、
実はその他の一般の歌人全員が賛同するすばらしい作品なのかもしれないのに。

自分は選ばれた・選ばれなかった、褒められた・貶されたからといって、
大喜びし、落胆している人こそ、
その「場」やシステムに飲み込まれやすいのだ。

新人賞なんて、長い短歌活動のきっかけの一つに過ぎないし、
ちょっとした通過点に過ぎない。
実際に「○○賞受賞」の勲章を貰ったからと言って、
その後が何一つ確かに確定するわけではない。
その後がダメなら、本人がやめなくても消える。存在感はすぐになくなる。
それだけのことだ。

言動のひとつひとつに一喜一憂するのはやめて、
自分の文体、歌を大切に育てていく時間を少しでもとったほうがいい。
それでも憤るなら、以前にも書いたけれど、正式に面会するなり、
連絡を取るなり、自分からリアルな場での議論の場を設定するなり、
具体的な、生身のコミュニケイトの方法を探ればいい。


新人賞応募から何を学ぶか、模索している人は、
どんな作品が選ばれているかを分析して来年の賞を取りに行くのではなく
選考過程で、委員の言動の中で
自分がよい、ああそうかと思ったところだけを「参考」にすればいい。
それもあくまで、自分の作品への「参考」にしかならないし、しない。
たった数人の「権威ある歌人」の考えなんて、参考にしかならないのである。

作品の価値を決めるのは最後には自分自身なのだ。


ぶれるな。かまうな。
すべては、誰でもない自分の文体を完成させるために。












2016
10.17

10月に思うこと・何処で言うのか

Category: 思フコト
映画「シン・ゴジラ」で、ゴジラ鎮圧に尽力した自衛隊幕僚長(國村隼)が、
その功をねぎらう相手の言葉にこう答える場面がある。

「礼はいりません。仕事ですから。」

任務を果たしただけ、というセリフは
幕僚長ではない「私」というひとりの人間としてではなく、
完全に「公」から、公人として発せられたのものである。
これもまた「シン・ゴジラ」のリアルさを醸す要素のひとつとして、
いかにも震災以降に露出の多い自衛隊の巷のイメージをうまく映しだしている。

そして先日、お気持ちを表明された天皇は、
「象徴としての務め」ということをおっしゃった。
自分はこの「務め」ということに少なからず驚いた。
その存在自体が象徴だと認識していたので、
天皇が公私は別ですよ、
務めを満足にできなくなったら象徴ではないという内容だったからだ。

かの震災のときのお見舞いも
私たち被災地にいる人間は、とても励まされたのだけど、
ああ、それも「務め」だったのだなあと思うと、
「礼はいりません。仕事ですから」というセリフと重なった。

いつからこんなに公私を明確に区別するようになったのか。
私の「お気持ち」を公が冷静な面持ちで話す、という構造をいつから獲得していたのか。
いや私だけが気付かなかったのか。

振り返って短歌の私性についても考えてみると、
周辺の概念が何にあたるのか、ここへ来て分からなくなってしまった。
すくなくとも私性は公私陸続きであったかのように認識していたのだけど、
その概念も時とともに遷移して、認識自体の共通理解がつねに流動している感じがある。
だからこそ、なにかの折に議論がかみあわないし、一定の着地点も得られないで、
すりあわせで終わることが多い。
もう一度整理して考えてみなくてはならないのかも知れない。










2016
09.19

9月に思うこと・「場」について

Category: 思フコト
コスモス短歌会であらたな同人誌が創刊した。
『COCOON』である。

創刊までの経緯については、編集発行人となった大松達知さんが
書いておられ、三十年つづいた『桟橋』ののち、
コスモス短歌会の有志、そして若手の皆さんが立ち上げた
同人誌であるという。

誌名の由来や、そのほか楽しいお話も満載である。
(詳しくは本誌をお読みください)
年4回発行、事務などの分担も持ち回りとして、負担も分割し、オンラインも活用しての
豊かで力強い出発である。

筆者がこの経緯の中で特に感じ入ったのが、有志、ということ。
結社内の若手に声をかける。すぐに応答がある。集合できる。そして質の高いものを発信できる。
そういう「場」をすぐに発生できる、それは母胎であるコスモスが豊かな土壌であるがゆえだと思う。

「場」というのは案外にそこに含有する人のあれこれを左右するのである。
同人誌は数あれど、「場」の効用について、自らについて、どのくらいの歌人が
意識しているのかと感じることが多くある。

コンセプトや人選をはじめとして、歌の並び、編集、装幀に到るまで、
「場」は総体として立ち上がってくる。
最大限、歌人はその「場」を活用し、出力できているか。
まず参加することに夢中で、「場」はおまかせという、案外無頓着な人もいるのではないか。


結社に居つつ、応答するべき仲間がいない筆者には、
とにかく羨ましくまばゆい船出だ。
『COCOON』2号も楽しみに待ちたいと思う。





2016
08.16

8月に思うこと・シンポ『「短歌」はどういう「詩」か』を聴講して

Category: 思フコト
8月13日に東京・青山で行われた、
『「短歌」はどういう「詩」か』のシンポジウムに参加した。
シンポジストは花山多佳子・斉藤斎藤・永井祐の三氏。

森岡貞香の歌を読みながら、
短歌という詩型についてあらためて思考を深める。
三氏の森岡貞香の歌の読み解きは、
三氏それぞれの日常の思考と個性が出ているようでとても面白く
そして興味深く聴講したけれど、少しだけおや、と思った部分があった。

議論は森岡の歌に見られる特有の時間・空間の扱い方、
「われ」の在り方にも論は及んだが、
たとえば、このシンポでは作家論的なものとしてではなく、
作品・歌の構造のみに着目するゆえに、
歌集に掲載された歌をひたすら解読する方法をとっている。
(最終的に短歌とはどういう「詩」なのか、を考えるための材として)

森岡は、歌集に収める際に、手元の歌を、初出から大幅に手を入れ、
各歌の順序も、もう一度再構築して
ほとんどまったく新しい編集がなされたものが決定稿となる。

一首ずつを細長い短冊状の紙に書き記し、畳の部屋一面に並べて
歌集の構成を練っていたという話もある。
森岡の場合、一冊の歌集は、
それまでの歌をアルバム的アーカイヴ的に収めたものではなくて、
一冊独立の作品集として在るのだ。

この編集のしかたは、ある程度森岡の歌に入り込んだことのある人なら
ありふれたエピソードとして流通していると思われるのだが、どうだろうか。

森岡の死後刊行された三冊の歌集(『九夜八日』・『少時』・『帯紅』)は、
ご子息が編まれたために、森岡本人の手を経ていない編集前の原本そのままである。
存命中の歌集と死後の歌集では森岡本人の認識の負荷がまったく異なる。
ゆえに、これらの歌集すべてを同一直線上に並べて
論じるのはいささかせっかちな感じがある。

さらにいえば、編集前の初稿と決定稿(歌集)との歌の間に
森岡の明確な意図が必ずかかっているので、その変容を比較することで、
より容易に歌の構造部分が明らかになったのではないか。
たとえば


この海星の場合 港灣に突き出でたるconcreteのうへにて死せり
                                 「百乳文」

という著名な歌も、初出は


海星らの仕方なき死(しに) 海側に向きてくづれしconcreteのうへ
                     「短歌現代」昭和54.10

となっており、初出がほぼ率直な観察の結果としての歌となっているのに対して、
決定稿「百乳文」での歌というのは、「場合」=case という
生の一場面が著しく抽出されたつくりになっており、
森岡の強く意識するところがくきやかに見えてくる。
また、「百乳文」の歌は破調だが、初出のほうが破調して居らず、定型を護ってすすむ。

このような例は、丹念に初出をあたっていけばいくらでも見られるのであって、
このような事例からアプローチする方法が見られなかったのは
私個人からすればすこしもどかしさもあった。
しかし森岡貞香の作品研究会ではないのだから、当然といえば当然であるか。


次回は、折口信夫(釈迢空)を材として考察をすすめるとのことが
会の終わりに予告された。
折しも角川ソフィア文庫から『釈迢空全歌集』が6月に出たばかりである。



岡野弘彦氏の編で、丁寧な解説が付く。
これを読んで予習しながら次回を楽しみに待ちたいと思う。










2016
07.18

7月に思うこと・「短歌にとって人間とは何か」

Category: 思フコト
岩手県の日本現代詩歌文学館が発行する館報77号に
角川『短歌』の編集長・石川一郎氏が寄稿している。

石川氏はここで、かつて行われた批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談
(『対話 人間の建設』)より)に触れ、
彼らが、ものを考えている人間がうまく問いを出せていないにもかかわらず、
答えばかりだそうとあせっている現状と、問いの大切さについて改めて指摘している。

例えば氏は『短歌』の編集に、やはりこの「問い」を大切にしていると続ける。
それは既刊誌面の特集となった「短歌にとって人間とは何か」に結実し、
また「短歌とは何か、読みとは何か」という通底する主題に繋がっていると述べ、
さらに模索していきたいとしている。重要な指摘である。

「短歌にとって人間とはなにか」という問いは、
ここ最近に勃興したのではない、一定の流れを示すものだ。
ある方位において主体の位置づけを攪乱した作品群が流行する中で、
この「人間」という主体を問い続ける動きはひそやかにかつ確実に存在してきたのだ。

最近の著書から。

「今の人たちが人間への関心から離れてることが私としてはつまらない。
人間くらいおもしろいものは、ないじゃないの」
                  『寂しさが歌の源だから』馬場あき子(角川書店)

「短歌は自分の現在や過去を記録するものではなく、自分の未来の生をつくっていくものだと、
かすかながらに確信していたということ。
自らの『いっさいの生』をあらわにし、あらわにすることによって新しい生をつくってゆく。」
   
「日ごろから、自分にとって歌を作ることはどんな意味があるのかといった
問いを抱いていることが必要であると思われる。始終、問うともなく、問わぬともなく、問い続けていなければならない」

                  『短歌講座キャラバン』阿木津英(現代短歌社)

人間、生、そして問い。馬場氏も阿木津氏も、根底には同じものを流している。
それでも、もうブラキストン線が引かれて、あちらとこちらにわかたれたような現在に、
この問いはまだ、問いかけの力を遺しているだろうか。継続して考えたい。









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